西武選手・コーチ時代
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2011年5月9日、埼玉西武ライオンズに金銭トレードで移籍することが発表された。翌10日付で公示され、同日に行われた入団会見で背番号61が発表された。西武には同姓の星秀和がいた事から、スコアボード表記は星孝となった。5月17日に出場選手登録され、21日の対中日ドラゴンズ戦で移籍後初出場および2季ぶりの一軍公式戦出場を果たした。8月12日の対オリックス・バファローズ戦では9番・捕手で先発出場し、7回表の第3打席で左中間へ適時二塁打を放ち、プロ初打点を記録。また初の猛打賞も記録した。18日の対東北楽天ゴールデンイーグルス戦では、6回裏に初盗塁を記録した。そのほかこの年は1軍での出場試合数や安打数、打点など現役生活で最多の数字を記録することとなった。イースタン・リーグ公式戦には22試合に出場し、1試合で三塁手としても起用された。シーズン終了後には背番号が25に変更された。 2012年はシーズン開幕を一軍で迎えたが、出場試合数は前年より減った。5月10日の対楽天戦では、8回裏に捕手として守備に就いていた際、タッチアップによる本塁上のクロスプレーがセーフと判定されたことを不服として球審の森健次郎に抗議した際に森の体に触れたことが暴力行為とみなされ退場処分を受けた。なお、この試合西武は既に星以外の捕手が全員退いていたため、プロ入り時に捕手でその後外野手に転向していた星秀和が「急造捕手」としてその後の守備に就いた。 2013年も開幕を一軍で迎え、チームの捕手としては炭谷銀仁朗に次いで2番目に多い39試合に出場した。9月19日の対北海道日本ハムファイターズ戦では、試合の途中で一塁の守備に就いたが、一軍公式戦で捕手以外の守備位置に就いたのはこの試合が唯一だった。 2014年、3年連続で開幕を一軍で迎えたが、出場試合数は11試合で、この年一軍公式戦に出場したチームの捕手の中では最も少なかった。イースタン・リーグ公式戦では、一塁・二塁・三塁の守備にも就いた。 2015年以降は一軍公式戦の出場機会がなく、2016年5月30日には右有鈎骨の除去手術を受けた。 2016年10月7日に球団から戦力外通告を受け、同月11日に二軍育成コーチへ就任したことが発表された。背番号は81で、10月12日にNPBから任意引退選手として公示。 2019年5月7日、二軍の捕手不足に対する暫定措置として、任意引退選手公示とコーチ登録を抹消したうえで育成選手としての契約を締結、規定により背番号を181に変更した。しかし出場は1試合だけにとどまり、10月21日に選手契約の解除が発表された。球団からは専任コーチとしての再契約を打診されたが、打診を固辞したうえで退団し、10月31日に自由契約選手(育成選手)として公示された。
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