行司として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 16:46 UTC 版)
「式守伊之助 (19代)」の記事における「行司として」の解説
引退直前の1958年九月場所初日、前頭7枚目北の洋 - 横綱栃錦戦で、北の洋が両差しで土俵際まで寄り詰めたところ栃錦が突き落として両者同時に倒れた。伊之助は栃錦に軍配を上げたが、物言いがつき、検査役の判定で北の洋の勝ちと決した。だが、伊之助は、土俵をたたいて「北の洋の右肘が早く落ちたんだ」と10分以上抗議を続けたため、出場停止処分を受けた(当初は九月場所中出場停止だったが、14日目から再出場した)。伊之助は行司部屋に引き上げてからも「栃関のほうが遅く落ちた。わたしゃ自分の意向にそわぬうちわはあげたくねえ」と涙を流して訴えたという。各新聞社が撮った写真によると、確かに北の洋の右肘のほうが早く落ちており、「伊之助涙の抗議」として世間の同情を集めた。 名行司である一方、迷行司(珍エピソードが多い行司)としても有名で、初土俵間もない頃に序ノ口の尼ノ里 - 越の川戦で「あまがえるとこしかけ」と間違えて叫んでしまい周囲を慌てさせたのを始めとして、玉次郎時代の1917年5月場所3日目では十両の男嶌と幕下の友ノ山の取組で、ひょんな弾みで男嶌の廻しの前袋が外れ不浄負けになった取組を冷や汗もので裁いた。庄三郎時代には歌舞伎座の7代目坂東三津五郎を尋ねたときにもらったツギ足(足袋のかかと部分にはめるゴム製のもの)で背を高く見せようと(身長152cmであった)足袋を上げ底にしたあげく、俵に引っかかって土俵下まで転落してしまった。 また土俵上で力士の名前を忘れてしまい「お前さんでございー」と勝ち名乗りを上げたり、三役格時代にも鏡里 - 玉ノ海戦で鏡里が勝ったのに「玉ノ海!」と言ってしまいとっさに「……に勝ったる鏡里」と言ってごまかしたりしたというエピソードがある。 その他、1958年一月場所3日目で横綱鏡里と前頭5枚目島錦の取組で右四つになったとき伊之助が島錦のさがりを抜こうとしたが軍配の下げ緒がさがりにからみつき、もぎ取られる格好で軍配が両力士の腹の間にはさまってしまい大あわて、館内は大爆笑だったとされる。 ある年の九州場所、通用門から出勤しようとしたところ若い警備員に観客と勘違いされ、注意されたのに対して「余は式守伊之助であるぞ」と返したという。相撲界で「余」という言葉を使う人は珍しく、ここからも彼のキャラクターが窺えた。 定年制の導入もあってか、行司の最高峰・木村庄之助を襲名できなかったが、未亡人の雑誌インタビューによると「ヒゲの伊之助で有名になった人だったから最後まで伊之助で終わったのがよかった」と拘りは見せなかったという。 弟子に27代庄之助、10代与太夫、31代庄之助がいる。
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