落語家入門まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 09:55 UTC 版)
両親とも養護学校の教員だった新保家の長男として出生。父は大阪府立藤井寺養護学校(現・大阪府立藤井寺支援学校)の校長として定年を迎えた。 1981年から放送が始まった「ハイヤングKYOTO」を吉弥は布団の中で聞き、特に水曜日を担当するつボイノリオがKBS京都局舎で放送日日中に開く「さしいれ」と称するリスナー交流会に出かけている。吉弥は小学校で児童会の会長、中学校で生徒会長・ブラスバンド部長を務めた。 大阪府立春日丘高等学校から、父が卒業した神戸大学教育学部に進学。高校時代には、体育教員になることを志しながら、サッカー部で活動していた(ポジションは中盤)。しかし、大阪教育大学と筑波大学の入学試験で不合格になったことを機に、目標を小学校の教員に改めた。大学への進学後は、落語研究会に所属。中学生時代にブラスバンド部でホルンを吹いていたことにちなんで、「甲家楽破(かぶとやらっぱ)」という高座名で活動していた。後に会長へ就任。その一方で、父の学生時代と同じく、夏場にはボランティアで「朝日キャンプ」(朝日新聞厚生文化事業団が主催する児童向けキャンプ)のリーダーを務めている。 大学時代は『3年B組金八先生』の坂本金八や、『熱中時代』の北野広大のような教員を目指していた。しかし、4年生の時に神戸大学附属住吉小学校で2年生に対する教育実習を経験したことをきっかけに、落語家への道を志すようになった。いわゆる「ゆとり教育」が本格的に始まった時期であったことに加えて、教員が負う責任の重さや、「先生よりも生徒が主人公」という実態に接したことで教員への適性に疑問が湧いたという。そこから、1人で背景からすべての演者を表現する落語の世界で生きることを模索。心酔していた桂吉朝に宛てて手紙を書いたことをきっかけに、吉朝の落語会に日参するようになった。当初、吉朝は弟子を取る意思を示さず、「神戸大学を卒業するのだから教師になれ」「他(の落語家)の所へ行ったらどうか?」という言葉で吉弥を諭していた。しかし、吉弥がなおも吉朝の楽屋へ通い続けるうちに、落語研究会の活動と並行しながら事実上の「見習い」として楽屋で身支度などを手伝うことを容認。3代目桂米朝一門の入門芸に当たる「東の旅・発端」を吉朝から半年がかりで教わった末に、弟子入りを認められ、大学在学中の1994年12月に、落語家としての初高座を果たした。ただし、吉朝の兄弟子に当たる桂ざこばは、自分より学歴の高い者への敵愾心と相まって最後まで弟子入りに反対した。桂米朝は、ざこばが「我々の税金で国立大学に行ったのに、なんで先生にならんねん」と怒っていたと記している。
※この「落語家入門まで」の解説は、「桂吉弥」の解説の一部です。
「落語家入門まで」を含む「桂吉弥」の記事については、「桂吉弥」の概要を参照ください。
- 落語家入門までのページへのリンク