航路概要
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玄界灘から壱岐をかすめ、対州の東水道を進み朝鮮海峡を渡る。 関釜航路 下関 - 釜山 240 km 所要7時間30分(1940年10月) 博釜航路 博多 - 釜山 215 km 所要8時間10分(1943年7月)
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航路概要
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稚内 - 大泊間:167.0 km(営業キロ:210.0 km) 所要時間:8時間(1928年、1934年12月当時) 運賃:1928年に一等7円50銭、二等5円、三等2円50銭。 宗谷海峡は冬になると流氷で閉ざされるため、就航船には砕氷船が使用された。厳冬期の大泊では氷上で旅客・貨物の取り扱いをすることもあった。 鉄道連絡船の性格上、宗谷本線の優等列車と接続するダイヤを組み、1938年からは稚内側では列車が船に横付けできるよう、稚内駅構内扱いに稚内桟橋駅という仮乗降場が設けられていた。また大泊側も桟橋上に大泊港駅が設けられ、樺太東線と接続していた。なお、稚内から樺太への定期航路は稚泊連絡船の他に北日本汽船経営の稚斗航路(稚内 - 本斗間)があり、こちらは樺太西線と接続していた。
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航路概要
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1923年(大正13年)から1943年(昭和18年)まで、長崎港と上海(日本郵船匯山碼頭)を結んでいた。運行開始翌年から1938年までは利用者増加を図る目的で、日本側の起点を長崎港より神戸港へと移し、神戸-長崎-上海を一行程として運行された。運賃は長崎(又は神戸)-上海、長崎-神戸で個別に設定されており、国内区間のみの乗船も可能であった。 所要時間は長崎-神戸間22時間、長崎-上海間26時間で、開設当初は週2回、翌年より4日に1回の運行であった。 航路開設時の行程。往航:長崎(水曜、日曜・午前9時発)→上海(木曜、月曜・午後0時到着) 復航:上海(金曜、火曜・午前8時半発)→長崎(土曜、水曜・午前11時半着) 神戸寄航後、1927年(昭和2年)当時の行程。往航:神戸(1日目・午前11時発)→長崎(2日目・午前9時着、午後1時発)→上海(3日目・午後4時着) 復航:上海(1日目・午前9時発)→長崎(2日目・午前12時着、午後3時発)→神戸(3日目・午後3時着)
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