自民党離党と復党、政界引退
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「海部俊樹」の記事における「自民党離党と復党、政界引退」の解説
1994年6月29日、自民党総裁の河野洋平が、党の政権復帰のため日本社会党、新党さきがけと自社さ連立政権構想で合意し、首班指名で社会党の村山富市に投票することを決めると、これを拒否して自民党を離党した。同じく造反した津島雄二の説得により、旧連立与党である新生党や日本新党から首班指名の統一候補として担がれるも、自民党からの造反は期待されたほどは起こらず、決選投票で敗れることになる。 同年7月18日、公職選挙法235条違反による裁判で参議院議員の新間正次の有罪判決が確定。新間の当選無効に伴う再選挙で野党9党派は労働官僚の都築譲を擁立し、7月27日、海部は都築の総合選対本部長に就任した。対する自民党は国連職員の水野時朗に出馬要請し、党県連会長の村田敬次郎は海部と絶縁する宣言を行った。海部の番頭格だった服部光孝県議も「25年間の縁を切る」と強い口調で述べ、自民党との溝は一層深まった。また、7月27日に海部は自由改革連合を結成して代表に就任している。 同年12月10日、新進党を結党して初代党首に就任。同じ旧愛知3区の江崎鐵磨も新進党結成に参加した。 同年11月21日に政治改革四法における小選挙区の具体的な区割り法案が国会で可決。海部も江崎鉄磨も一宮市を含む愛知10区の公認を主張して譲らなかったが、1995年3月17日、新進党本部の調整で海部は愛知9区、江崎は愛知10区と決まり、両現職の戦争は回避された。 新進党分党後は1年1ヶ月の無所属暮らし(院内会派「無所属の会」)を経て、自民党との連立政権に加わった自由党に入党。2000年の同党分裂の際には、自民連立継続派の保守党に所属する。 保守新党に改組して臨んだ2003年に第43回衆議院議員総選挙では、民主党の新人岡本充功に比例復活を許したが、小選挙区勝利で連続当選記録を伸ばし、選挙直後に吸収合併される形で自民党に復党した。復党後は古巣河本派の後継である高村派には戻らず、二階俊博ら一緒に復党した旧保守新党議員らと二階グループを結成した。自民党復党の折には自民党幹事長安倍晋三から復党を「諸手をあげて歓迎します」と言われ、離党した際に撤去された海部の肖像画も再び掲額された。 2009年の第45回衆議院議員総選挙にて、小選挙区で民主党の岡本に8万票以上の大差をつけられ惨敗し、党の73歳定年制もあって重複立候補できなかったため、比例復活もできず落選した。同日、政界引退を表明。海部は総理大臣在任中の成果を強調し選挙に挑んだが、海部の首相時代を知らない若い世代の有権者が増えたことも落選の一因とされる。首相経験者が落選したのは、1963年の第30回衆議院議員総選挙の石橋湛山、片山哲以来46年振り、自民党総裁経験者としては石橋以来2人目である。解散時点で海部の連続当選回数は16回、勤続年数48年9ヶ月と衆議院議員としては現職トップだった。このとき当選していれば、尾崎行雄や師匠である三木などに続いて衆議院議員在職五十年に到達するところであった。
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