自民党離党、新党さきがけを結成
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「田中秀征」の記事における「自民党離党、新党さきがけを結成」の解説
1992年、文藝春秋(1992年6月号)で新党樹立宣言をした細川護熙と週刊東洋経済(1992年9月12日号)で対談し意気投合、対談後に細川の希望でパレスホテルでじっくり話をし、師事する宮澤喜一の内閣が終わったら行動を共にすると約束する。 1993年4月、武村正義と新党結成を決断。二人は鳩山由紀夫を最初に誘い、そこから離党する仲間は計10人なった。6月18日、宮澤改造内閣の不信任決議案の採決では反対票を投じたものの、同日、他の9人の仲間とともに自民党を離党。武村正義は宮澤内閣不信任案に賛成を迫ったが、首班指名で宮澤の名を書いたのだから自分にも責任がある、宮澤のごく近くで政治活動をしてきた自分が、野党の出した不信任案に同調するなんてもっての外と、宮澤内閣の不信任案に反対して離党した。挨拶に行った際に、宮澤から「筋を通したんだね。立派だよ。」と激励された。 同年6月21日、新党さきがけを結党。武村正義代表の下で党代表代行に就任党名を「新党・さきがけ」としたのは、隣に座っていた井出正一の前に置いてあった井出後援会機関誌の名称が「先駆け」なのを見て、さきがけにしようと言い出した。井出は周囲が離党についてなかなか納得せず悩んでおり、言葉の響きがいいのと、井出の機関誌の名を党名にすれば井出のプラスになるのではと思ったからだという。 さきがけの政治理念は田中が原案をつくり、結成議員全員で討議して決めたという。①「日本国憲法の尊重」②「侵略戦争の反省と政治的軍事大国路線を目指さない平和への貢献」③「地球環境への貢献」④「わが国の文化と伝統の拠り所である皇室の尊重と全体主義の抑止、健全な議会政治の確立」⑤「新しい時代に臨んで、自立と責任を時代精神に捉え、社会的な公正が貫かれた質実国家」を政治理念として草案する。田中はこの五項目の政治理念を所属していた宏池会の政治姿勢を念頭に置き、保守本流のバトンを引き継いでいくという意識が強く持ちながら起草したという。 田中は、冷戦が終わったこと、保守本流の神通力だった財政金融政策がいままでどおりの効果を持たなくなったことから、自民党の時代的役割は終わったのではないかという危機感を持っていた。また、やみくもな経済成長至上主義に疑問を抱いていたこと、地球環境問題が1990年代初めから人類史的課題になっていたことを念頭に執筆、皇室の尊重と全体主義の進出を許さないは、日本人として常識的な路線であり、自分たちが保守勢力であるという強い自覚に基づくものが背景にあった。 「質実国家」は、昭和元年12月28日、昭和天皇の践祚後朝見式ノ勅語にある一節「それ浮華を斥け質実を尚び・・・」が由来である。田中秀征は、これは昭和をこういう時代にしたいという昭和天皇の夢であり、浮華を退けては虚飾を排してという意味と捉え、「背伸びせず内容本位で自然体」と説明していた。 新党さきがけ結党時、日本新党との合流を考えており、細川護熙、武村正義と三人で会った時に、「われわれが一緒に党をつくる時、細川さんが代表、武村さんは幹事長」と二人の前で念押しした。この事実は歴史に残しておきたいと言っている。
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