自民党道連婦人部長
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1961年(昭和36年)、自由民主党北海道支部連合会(自民党道連)の婦人部長に指名された。本来なら、婦人部長は北海道議会議員またはその夫人が前提であり、当時は小樽市と札幌市に1人ずつその候補がいたが、それぞれを推すグループ同士が衝突して決着がつかずにいた。そこで当時の北海道連幹事長である岩本政一が仲裁に入って市議会から選ぶことになり、自民党系の市議は中川を含め北海道内に3人いたが、中川以外の2人が早々に辞退したことで、中川に白羽の矢が立ったものである。なお中川が自民党に入った理由は特になかったと見られており、中川本人も「いつの間にか」と語っている。 尋常小学校しか出ていない中川は「自分の名前さえ満足に書けないので務まらない」と一度は断ったが、岩本政一は度胸を気に入り「字が書けないなら秘書をつける」といって婦人部長を任せた。これにより中川は1973年(昭和48年)までの12年間、常に秘書つきで婦人部長を務めた。 1971年(昭和46年)の北海道議会議員選で同党幹事長の武部勤が立候補する際、道連が入党に難色を示す中、中川が入党の助力をした。また同年、堂垣内尚弘の北海道知事選出馬の応援を依頼された際は、網走出身である香千枝夫人の「香」を取って「かおり会」を結成し、北海道を2巡して会員を募ることで女性支持者を5万人にまで増やし、当選に大きく貢献した。山形県出身の代議士の応援演説に駆けつけた際は、2000人収容可能な演説会場が超満員になり、入りきれなかった1000人以上の聴衆が会場の外まであふれるほどの人気ぶりであった。 在任中の内閣総理大臣である池田勇人、佐藤栄作、田中角栄らとも親交を深めた。中でも特に、奉公しながら苦学した身である田中は、似た境遇の中川を気にかけ、可愛がったという。
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