臨港線の衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 04:06 UTC 版)
1963年度(昭和38年度)には、京浜工業地帯の各貨物駅を発着する貨物量は年間約1500万トンに達し、これは当時の国鉄全貨物輸送量約2億トンの7 - 8パーセントに相当していた。臨港線内の駅では新興駅の年間約235万トンが最大取扱量で、これは当時全国の駅では第12位の貨物取扱量であった。国鉄は1965年(昭和40年)の第三次改良計画において画期的な輸送力増強計画を打ち出し、高速輸送体系の整備、コンテナ輸送の強化、一貫パレチゼーションの推進、物資別適合輸送の拡充などを掲げ、臨港線においても東高島に化学薬品、高島に鉄鋼の物資別輸送基地が設置される計画となっていた。 しかし昭和30年代に入ると、陸上貨物輸送のトラックへの転移が始まり、また船舶輸送もそれまでの荷役を一手に引き受けていた埠頭から物資別の専用埠頭に移行するようになっていった。鉄道貨物輸送も輸送量の総量が減少するだけではなく、従来のように貨物全般を取り扱う形態からコンテナや石油タンク車などの特定品目の大量輸送に特化して行くようになり、これにともなって臨港線の輸送も衰退していくことになった。こうして第三次改良計画において設置された物資別適合輸送の基地も石油や石灰石などを除いて廃止されていくことになり、臨港線の各支線・貨物駅も次第に廃止されていくことになった。 1979年(昭和54年)10月1日にまず東横浜駅が貨物扱いを廃止し、東横浜信号場となった。1980年(昭和55年)6月13日から15日にかけて、横浜開港120周年および横浜商工会議所創立100周年を記念して、蒸気機関車C58 1の牽引による記念列車が東横浜信号場 - 山下埠頭間で運転され、山下臨港線に初めて旅客列車が運行された。またこれは臨港線に蒸気機関車の走った最後の機会となった。1981年(昭和56年)1月29日、港一号橋梁の近くで上り線が切断され東横浜 - 横浜港間が単線化された。これにより高島から横浜港までが単線となり、翌1月30日に東横浜信号場も廃止となった。1982年(昭和57年)11月15日には横浜港駅も横浜港信号場に格下げされ、高島から表高島、東高島から横浜市場の支線も廃止となった。1985年(昭和60年)3月14日には入江駅が廃止となり、新興駅と統合された。 そして1986年(昭和61年)11月1日には臨港線の貨物列車牽引を担ってきた横浜機関区が廃止となり、高島駅は高島信号場に格下げされ、開業して20年程度しか経っていない山下埠頭への貨物線も廃止となった。これにより高島信号場より南の線の貨物営業は終了したが、書類上は高島信号場から横浜港信号場までの旅客営業が残った状態となっていた。これにより臨港線内の駅は事実上、新興駅と東高島駅のみとなった。1987年(昭和62年)3月31日の国鉄最後の日にこの区間の旅客営業も廃止となり、横浜港信号場も廃止となった。一方、手続き上は高島信号場が再度貨物駅として開業し高島駅となっている。
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