臨港線の拡張
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 13:37 UTC 版)
「高島駅 (神奈川県)」の記事における「臨港線の拡張」の解説
1920年代後半から1930年代になると、横浜の港湾整備は神奈川区、鶴見区の沖合へと進展するようになり、この地域の埋立地に岸壁や工業地帯が造成されるようになった。こうしてこの地域にも貨物支線が延長されていった。高島駅に関連するところでは、1934年(昭和9年)6月15日に山内埠頭の完成に伴い山内町(後の横浜市場)への支線が、同じく高島埠頭の完成に伴い表高島への支線が、それぞれ開通した。ただし、山内町への支線は実質的には千若信号場からの分岐であった。表高島への支線は、間にある入江と倉庫群を避けるために大きくUの字を描いて回り込む構造になっており、路線の距離は1.3 kmあっても駅までの直線距離は200 mほどであった。 詳細は「高島線#工業地帯の発展と臨港鉄道網の完成」および「高島埠頭#歴史・現況」を参照 この頃高島駅では、鶴見方の入口に2階建ての東部信号所、横浜港方の入口に1階建ての西部信号所があって、それぞれの出入口におけるポイント切り替えを行っていたが、構内は手作業でのポイント切り替えであった。西側の京浜国道に沿って駅本屋、横浜通信区、高島機関区、横浜保線区などが並び、また本線北側の帷子川との荷揚げ場、横浜貨車区、貨物ホームなどがあった。1945年(昭和20年)5月29日、横浜大空襲により高島駅は被災し、東部信号所を除く構内の建物ほとんどが焼失した。構内の建物は急いで再建されたが、それまでの間は貨車を代用の詰所や宿泊所として使用していた。 「横浜大空襲#概要」も参照
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