工業地帯の発展と臨港鉄道網の完成
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「高島線」の記事における「工業地帯の発展と臨港鉄道網の完成」の解説
1920年代後半から1930年代にかけて、横浜の港湾整備は神奈川区、鶴見区の沖合へと進展するようになった。この時代になると工業の発展が進み、臨港線は単に船舶との連絡を果たすばかりではなく、臨海工業地帯の貨物輸送をも担うようになっていった。このため、埋立地に造成された岸壁や工業地帯へと次々に貨物支線が延長されていった。1934年(昭和9年)3月1日には恵比須町、宝町、大黒町の埋立地へ入江駅から分岐して新興駅までの支線が開通した。続いて6月15日には山内埠頭の完成に伴い高島(実際には千若信号場) - 山内町間が、高島埠頭の完成に伴い高島 - 表高島間が、それぞれ開通した。さらに瑞穂埠頭の完成に伴い、1935年(昭和10年)7月15日には入江駅から(実際には千若信号場から)分岐して瑞穂駅までが開業した。この線は海神奈川駅のある地点を通過して瑞穂駅へ向かっていたが、瑞穂駅への支線が開通したころには海神奈川駅は高島線より北側の、現在は下水処理場になっているあたりに移転していたとされており、瑞穂への支線が海神奈川駅の構内を通ったことはなかったとされる。しかし海神奈川駅のキロ程は変更されておらず、実際に移転した日付は不明となっている。一方で、東横浜駅から生糸検査所までの引き込み線が1928年(昭和3年)3月31日に開通した。 1935年の瑞穂駅への支線開通により、横浜の臨港鉄道網はほぼ完成を見た。『横浜市統計書』および『横浜港湾統計年報』を分析した資料によれば、横浜市に鉄道を通じて到着した貨物量は1911年(明治44年)の30万トンから1928年(昭和3年)の223万トンへ約7.4倍に、発送された貨物量は50万トンから255万トンへ約5.1倍に増加した。また、単に船舶を通じて到着・発送される貨物を鉄道で中継して国内各地と結ぶ機能から、臨海工業地帯における加工・生産にかかわる輸送が増大していった。1929年(昭和4年)の統計によると、船舶で到着して鉄道で出荷された品目は主に豆粕・大豆・リン酸アンモニウム・重油・木材・小麦・石炭・台湾米・レール、鉄道で到着して船舶で出荷された品目は生糸、鉄道で到着して横浜市内で消費された品目が砂利・木炭・内地米・石材・石灰石・屑糸・木材・小麦、横浜市内で生産されて鉄道で出荷された品目が揮発油・板・麩となっている。 このころの臨港線では、高島機関区の所属機関車が主に使用されており、機種としては5500形、6750形、6760形、C58形などであった。 しかし第二次世界大戦の勃発により、アメリカとの旅客航路は休止され、ボート・トレインの運行も中止になった。大戦前のボート・トレインの最終運行の記録は明確でないが、大戦前最後の対米航路出航が1941年(昭和16年)7月18日の浅間丸であることから、この日ではないかとされている。対米戦争開戦後は、1942年(昭和17年)4月1日から横浜港駅は海軍関連の貨物専用に使用されることになった。大戦末期には横浜市は激しい空襲を受け、高島駅、入江駅、海神奈川駅、千若信号場、表高島駅なども大きな被害を受けた。しかし東横浜駅や横浜港駅は一部を損傷したのみで大半は健在であった。
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