工業地帯・ベッドタウンへの変貌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 02:38 UTC 版)
「行徳」の記事における「工業地帯・ベッドタウンへの変貌」の解説
明治時代、総武線を行徳地区に通す計画があったものの、漁民や、対岸に船を出す船頭たちによって計画が消え、発展せずに昭和を迎えた。 大正8年(1919年)に江戸川放水路が開削される。これにより行徳町が分断される。 昭和34年(1959年)から海面の埋め立て事業が始まり、昭和40年(1965年)からの第三次埋め立て事業で約16万平米の埋め立てが完成し、ほぼ現在の行徳地域の姿が出来上がった。この埋め立て地に多数の工場や倉庫などが誘致された。 昭和44年(1969年)に営団地下鉄東西線(現・東京地下鉄東西線)の行徳駅が開業し、鉄道がない地域のため「陸の孤島」と言われた行徳地区が変貌をし始める。昭和48年(1973年)から土地区画整理事業による宅地開発が行われ、東京都心へのアクセスがよい割に安価なベッドタウンとして発展する。人口増に合わせて昭和56年(1981年)には営団東西線南行徳駅が開業した。 唯一開発から取り残された江戸川放水路西岸の妙典地区は宅地もまばらで、茫洋としたススキやアシが生い茂る原が目立っていた。平成12年(2000年)に土地区画整理事業が完成して大規模マンションやショッピングセンターが建ち並ぶようになり、これに合わせて同年、営団東西線妙典駅が開業した。 現在の行徳地区の面積は12.56平方キロメートル、居住人口(夜間人口)は15万5000人ほどで、人口密度は千葉県で2番目に高いとされる市川市平均の1.5倍(約12000人/平方km)ということもあり、駅前駐輪問題の背景にもなっている。 また、行徳地区には約7200人の外国人が住んでおり、国籍は105か国に及ぶ。
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