聖書の箇所ごとについての論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 15:27 UTC 版)
「新世界訳聖書」の記事における「聖書の箇所ごとについての論争」の解説
ヨハネによる書1章1節:「初めに言葉と呼ばれる方がいた。言葉は神と共にいて,言葉は神のようだった」などのような「本書の訳文は改竄されており、キリストの神性を否定する異端的な内容に書き換えられている」と指摘されている。エホバの証人によれば「言葉は神と共にいて」の「神(テオン)」には冠詞(トン)があり、「言葉は神(テオス)だった」(脚注・直訳)の「神」に冠詞がないため、後半は「言葉(イエス・キリスト)は神のようなものであった」なのだという。キリスト教会によれば、冠詞の有無はそういう意味ではなく、「言葉」はイエス・キリストを指し、かつ神なのである。さらに、ヨハネの福音書において、1:6、1:18(前半)等16箇所においての「神(エホバ)」について、冠詞がないことも指摘する。 上述の内容について、エホバの証人は以下を主張している。 エホバの証人の組織の出版物によれば、「神」という称号はエホバ固有のものではなく、ヘブライ語聖書ではイエス(イザヤ9:6)や天使(詩編8編5節)、ギリシャ語聖書では悪魔サタンにも用いられており(コリント人への第二の手紙4章4節)、しかもヘブライ語エールには冠詞がない("God"と"a god"の区別がない)ため、福音書筆者がヘブライ語聖書から引用して「言葉」(イエス)を「神(God)」と呼んでも問題なく、それがエホバとイエスが同格だという意味ではないという。また、西暦初期のギリシャ語を翻訳した古代コプト語訳のヨハネによる福音書1章1節が、新世界訳と同様に訳していることにも注目している。 キリスト教に言わせれば、そのようなエホバの証人の組織の出版物は正確とはいえない。聖書は繰り返し一神教を説いており、唯一まことの神以外に神を認めることは、たとえ「のようなもの」であっても矛盾である。旧約聖書『詩編』8編5節の神は、どのような意味でも文脈に齟齬はないが、新約聖書『コリントの信徒への手紙二』4章4節では、サタンはむしろ天の神のニセモノとして「この世の神」と呼ばれたのである。しかしイエス・キリストを神というとき、サタンのようなニセモノの神と考えるのは無理がある。天の父も、イエス・キリストも、唯一まことの神として本質的に一体と考えるべきであり、同じただひとりの神である以上、神の位格であるイエスは神であるという。 上述の内容について、エホバの証人は以下を主張している。 しかし、エホバの証人にすれば上記の主張は矛盾がある。聖書中では天使のことを神と呼んでいる箇所がある。例えば、ロトが接待したのは3人の天使だったが(創世記19章1節)、ロトはその天使を「ヤハウェ(エホバ)」と呼んでおり(創世記19章27節)、聖書自体も天使を神の名で呼んでいる(創世記18章1節)。これは天使が神の位格にあるというわけではなく、その天使が神の代行者であることを表しているに過ぎない。同様のことはヤコブが天使と組み打ちをした時にも示されている(創世記32章)。詩編の中でも天使や宗教指導者が神だと述べている箇所がある。イエスを神とするヨハネ1章1節の主張も同様に解釈すべきであるが、三位一体論者はそれを完全に無視する。また、三位一体を信じることはイエスや聖なる力(聖霊)が神と対等であることを認めることであり、それはエホバだけが全能者であるとする聖書の一神教と矛盾する。 グランヴィル・シャープの法則によれば、英語などで The A and B. のように、ひとつの冠詞で表わした A と B は互いに同一であり、ギリシャ語でも同様である。すなわち「神とキリスト」ではなく「神であるキリスト」と読みうるのである。もっともキリスト教側のいうには、聖書によればキリストは神の子でありながら、いやしき人の子としてわれらのもとにお生まれになったのであるから、天の父なる神とは上下大小の差があるともいえるが、本質的にひとつであり、ただひとりの神である。これに対しエホバの証人は、ヨハネによる書14章28節の「父はわたし(イエス)より偉大な方」というのを独自に解釈し、すべての句において「神とキリスト」という読み方しかできないとしている。三位一体論者は、そもそも聖書筆者は文法学者ではない、という前提を無視して主張しているのである。 テサロニケの信徒への手紙二1章12節(本書表記では『テサロニケ人への第二の手紙』)においては本書のほか、キリスト教の聖書では新共同訳聖書と口語訳聖書が「神とキリスト」の読みを採用しているが、新改訳聖書は「神であるキリスト」の読みを採用している。新共同訳は美しく自然な日本語が評判で広く用いられており、また口語訳も終戦直後から長く愛されてきたのであるが、新改訳は聖書原典にひときわ忠実であることで支持されており、面目躍如である。ペトロの手紙二1:1(本書表記では『ペテロの第二の手紙』)においては本書と新共同訳聖書と口語訳聖書が「神とキリスト」の読みを採用し、新改訳聖書が「神であるキリスト」の読みを採用している。テトスへの手紙2章13節においては本書と「新アメリカ聖書」(英語)、「現代英語の新約聖書」(英語)が「神とキリスト」の読みを採用し、「新共同訳聖書」と「口語訳聖書」と「新改訳聖書」が「神であるキリスト」の読みを採用している。
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