群狼作戦の開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 20:25 UTC 版)
「蒸気船時代の海戦戦術」の記事における「群狼作戦の開発」の解説
大戦の開始と共に採用された連合国軍の護送船団方式であったが、ドイツの潜水艦Uボートは新しい戦術を採用した。大戦の最後の年までほとんどすべてのドイツUボート(他国の潜水艦もそうだったが)は、ディーゼル機関を使い、水中での推進力は電気モーターによっていた。このことは重要な戦術的意味合いがあった。電気モーターはディーゼル機関に比べはるかに非力であり、駆動時間も短かった。潜航中の速度は10ノット(18 km/h)程度であり、最も遅い商船と大差無かった。さらに、遅いだけでなくその最大潜航速度で進める時間も限られていた。第二次世界大戦の潜水艦は、真の潜水艦(潜航して行動する艦)でなく可潜艦(潜航することもできる艦)であった。 カール・デーニッツの指揮下、Uボートは夜、水面上で攻撃するという戦術を採用した。これは第一次世界大戦で初めて使われたものであり、第二次世界大戦の開戦1年前にもバルト海で試されていた。日中に潜航して攻撃するよりも、水雷艇のように高速を使える夜の水上で攻撃すれば効果が大きいことを発見したのである。夜間、浮上して護送船団に近づき、護衛部隊に接近した時もまだ発見されずにいられることを彼らは見いだした。護衛艦の艦橋の高い位置から見ると、Uボートの低い船体はほとんど視認できず、暗い水面にわずかに司令塔の影がある程度だった。逆にUボートからは、護衛艦や商船の船影が夜空にくっきりと浮かび上がっていた。 第一次世界大戦の対護送船団戦闘で、ドイツは、守りを固めた護送船団に1隻の潜水艦で向かっても大した成果が得られないことを学んだ。単独で攻撃する代わりに無線で連絡を取りながら連携を取る群狼作戦を採用した。連合国軍の護送船団の進路と交差する長い警戒線の中に潜水艦が散開する。位置につくと水中聴音器で船団のスクリュー音を感知したり、あるいは双眼鏡で水平線上に漂う船団の煙突の煙を見つけようとした。ある潜水艦が船団を見つけると、船団の位置を伝え他の潜水艦が集まるのを待った。これで護送船団の護衛部隊は1隻の潜水艦に立ち向かう代わりに、夜間におそらくは半ダースのUボートと対戦しなければならなくなった。オットー・クレッチマーのような大胆な艦長は船団の警戒ラインの中に入り、船列の中から商船を攻撃することまでやってのけた。護衛艦は数が足りなかった上にしばしば持久力にも欠けており、また、装備したソナーは水中目標にのみ働くものであったため、夜中に浮上した潜水艦には何の反応も示さなかった。 これに対するイギリスの対抗策は常設の護衛部隊を組織して、船と戦闘員の連携効果を上げることだった。護衛部隊は2、3隻の駆逐艦と半ダースのコルベットによって構成されたが、部隊の2、3隻は悪天候や戦闘による損傷のためにドック入りしていることが多く、通常は6隻ほどで護衛についていた。 ドイツも長距離偵察が可能な航空機を導入して護送船団を探し、Uボートの攻撃を助けたが、捗捗しい成果を挙げるにまでは至らなかった。大戦の終り頃、ドイツは自動誘導魚雷を導入した。これは敵船のスクリューが発するノイズを探知して追跡するものであった。当初はこれが大きな成果を上げたが、連合国軍の科学者達はすぐに対抗手段を開発した。 アメリカ海軍の太平洋における潜水艦作戦は大西洋のドイツ海軍と多くの点で類似している。アメリカ軍は大戦当初、魚雷に欠陥があった為に、危険を冒して命中させても戦果を挙げられず士気が落ちてしまい、その回復に1年以上を要した。アメリカ軍の潜水艦は夜の海面に出て群れをなして攻撃するというドイツと同じ戦法を採った。ただし、群れと言っても3隻を超えることは稀であった。太平洋では、大西洋と異なり、レーダーのような新技術の恩恵を受けたのは潜水艦であって護衛部隊ではなかった。1943年までに多くのアメリカ軍の潜水艦がレーダーを装備し、夜に護送船団を見つけたり護衛部隊の位置を探査することに用いた。
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