美容家の道へ
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1894年(明治27年)、兄が死去との報せが届いた。マリールイズはそれを機に、母と病弱な妹を想い、手に職をつけることを考えた。さらにパリの街を飾る女性たちのファッションを目にするうちに、美容を身をつけることを思いついた。女性の美に関する仕事なら、自分にとって身近なものであり、かといって洋服関係は当時の日本には時期早々であり、美容ならば女性の生理に密着し、誰もが必要とする大切な物との考えであった。 32歳の頃、パリの美容学校に通い始め、当時のパリの美容の流行であったマルセルウェーブ、かつら、つけ毛などを学んだ。化粧品学や製造法の習得にも尽力し、養母(叔母)に内緒でアパートを借り、そこでモデルたちを無料の練習台として腕を磨いた。学校では講師を務め、技術者として腕を上げていった。
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美容家の道へ
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1930年(昭和5年)、喜久子は母の髪の世話を通じて美容の道に開眼し、東京東銀座のハリウッド美容研究所に入所した。間もなく同系列のハリウッド美容室に移り、初代メイ牛山に師事した。喜久子の祖母は軍人家庭という事情もあり、陸軍の軍人など結婚相手を紹介し、結婚資金まで用意したが、喜久子は「その金を美容の勉強に使わせてほしい」と、美容家への意志を貫いた。 同1930年から翌1931年(昭和6年)にかけて、父が脳溢血の病床で、徹夜で母の看病を続ける喜久子に「やるからには一流の美容師になれ」と励ましつつ死去、妹2人と母も相次いで死去と、不幸が続いた。 この間、2代目メイ牛山の義弟(2代目メイ牛山の夫の弟)である牛山吉次郎から求婚された。家柄の違いから親族たちは反対したが、すでに恋愛感情が高まっており、喜久子は反対を押し切って、1931年に結婚した。 同1931年、ハリウッド美容室の銀座4丁目支店の主任を任された。モデルやカフェーの女給たちも多く通い、加山雄三を出産したばかりの小桜葉子、淡谷のり子といった上客もいた。原節子も客の1人であり、彼女に最初にパーマをかけたのが喜久子であった。しかし店自体はごく小規模であり、窓からすぐに松屋が見えたため、松屋の大きなビルを眺めつつ、「いつかはこんな大きなビルで仕事を」と憧れる日々を送っていた。
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美容家の道へ
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1929年(昭和4年)1月に、文筆家の小守谷達夫と結婚した。みよか自身に美容師になる意志は無かったものの、兄2人が相次いで死去したために家業を継ぎ、同1929年4月に東京府の上野松坂屋に美容所を開設した。 夫は美容の仕事に理解を示しており、「家で培われた技術を継ぐべき」との夫の言葉も後押しとなった。同1929年11月には父の兼太郎も、56歳で急逝した。 その後は夫から経営面での協力を受けつつ、美容業に専念し、松坂屋名古屋店、大阪店、静岡店と、各地に店舗を展開した。当時は和装に洋髪(女性の西洋風の髪形)がお洒落と見なされていたため、当時のファッションリーダーといえる芸妓たちが足しげに店に通い、みよかの店の営業はそうした女性たちに支えられた。美容所の存在が新聞などのメディアに取り上げられることも、次第に多くなった。
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