美容学校の設立・美容師の地位向上
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/08 02:15 UTC 版)
「早見一十一」の記事における「美容学校の設立・美容師の地位向上」の解説
戦後は生活に困窮する女性も多かったことから、一十一は「美容師は経済的自立と子育てを両立できる仕事」と考えて、1947年(昭和22年)に早見美容学校(後の早見芸術学園)を創設し、夫の遠藤千之が初代校長を務めた。学校の設計は一十一自らが務め、校内で人々がゆったりと、伸びやかに動ける環境を目指した。 一十一が学校で心掛けたことは、女子大時代に教わった人間教育であり、「センスと教養と人間味を持ち合せ、科学に強い美容師の養成が、平和な日本にふさわしい」ということだった。そして「美容師が経済的にも社会的にも職業人として認められるためには、日本文化にも通じる教養を身につけることが必要」と考え「人格第一、技術これにつぐ」との校是を定めた。生徒を奈良や京都へ連れて行き、伝統文化に触れさせ、礼儀や言葉遣いを厳しく教えた。昭和30年代には鎌倉の本覚寺などで、毎年のように夏期美容大学講座を主催し、技術と知識と教養の3本立ての学習を指導した。 校是を生徒たちに理解させるため、毎週月曜に朝礼を実施し、時事問題や社会問題や国際問題などに触れつつ、自身の考え、美容師としての心得を説いた。実習においては一十一自身がモデルとなり、生徒たちに化粧をさせ、爪を塗らせ、着付けをさせた。 また戦後から間もない時期は、美容業は依然として理容の傘下にあった。夫の遠藤が巨体の上に英語に堪能であったことから、一十一は山野千枝子や他の美容家たちと共に、遠藤を先頭に立ててGHQへ乗り込み、美容業の理容からの分離・独立の必要性と現状を訴えた。この運動の結果、それまでの「理容師法」は「理容師美容師法」に生まれ変わり、6年後の1957年(昭和32年)に、美容師だけを対象とした単独の「美容師法」の制定に至った。 1966年(昭和41年)に遠藤が死去した後、一十一が早見芸術学園の第2代校長を継いだ。他に神奈川美容師会、全日本婚礼美容家協会などを設立し、会長を務めた。歌舞伎や着物を好み、着物を美しく着こなす着付けの普及にも尽力した。 戦中には遠藤が戦局把握のために聞いていたボイス・オブ・アメリカの情報を頼り、鎌倉の文士、作家、画家たちが家に集い、一十一が一同の食事を作っていた縁で、そうした文士たちが戦後に「鎌倉ペンクラブ」「鎌倉アカデミー」を結成しており、一十一の開催する講習を支えた。
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