美容家への転向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/08 02:15 UTC 版)
一十一の姉は、芝居好きの父の影響で、若い頃から着付けをこなし、鎌倉の六地蔵で美容院を営んでいた。そこで一十一は、美容師ならば収入が得られる上に、定年が無いと考えて、残りの財産をすべて異母弟に譲り、姉に弟子入りして美容師の道を目指した。 姉が後に活動拠点を東京に移したことから、一十一は1925年(大正14年)に鎌倉の店を継いで、「銀座美容院出張所」を開業した。鎌倉美容組合の組合長も務めた。当時の美容師は、会合では居並ぶ関係者に酌をして回るのが当然のような、見下げられた存在であったため、組合で一十一が会長として挨拶を述べると、「女が挨拶をした」と評判となった。 1933年(昭和8年)に、夫と死別した。1936年(昭和11年)、仲人であり旧知の仲でもあるヘアデザイナー志望者の遠藤千之と再婚した。翌1937年(昭和12年)より、着付け、美顔術、パーマネントウエーブなどの美容師の指導に乗り出し、女性が個性的な化粧や髪形を楽しめるような仕事の可能な美容師の養成を、夫妻で目指した。 遠藤は一十一と結婚するまで、アメリカで15年にわたって美容を学んでおり、1938年(昭和13年)には美容啓蒙雑誌『日本国際美容』を発刊した。発行元の「イソイプロダクト」は、一十一の名を冠したものである。一方で一十一は「イソイシャンプー」を考案し、ほぼ毎日、19時から21時まで講習会を開催し、美容師の技術向上に努めた。洋髪の普及に努めたことで、「鎌倉はパーマのメッカ」と呼ばれるに至った。
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