総力戦体制構築の推進
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かねてからの「国家総動員に関する意見」などが認められて1926年(大正15年)に国家総動員機関設置準備委員会幹事となり、内閣の資源局、陸軍省の動員課と統制課の設置に導き、初代動員課長となる。 1928年(昭和3年)には動員課長を辞任し、後任は東条英機となった。 麻布の歩兵第3連隊長を務めた後、1930年(昭和5年)に南次郎陸軍大臣の下で陸軍省軍事課長となる。 1932年(昭和7年)に陸軍少将に昇進。 1933年(昭和8年)6月、陸軍全幕僚会議が開催され、会議の大勢は「攻勢はとらぬが、軍を挙げて対ソ準備にあたる」というにあったが、参謀本部第二部長の永田一人が反対し、「ソ連に当たるには支那と協同しなくてはならぬ。それには一度支那を叩いて日本のいうことを何でもきくようにしなければならない。また対ソ準備は戦争はしない建前のもとに兵を訓練しろ」と言った。これに対し荒木貞夫陸軍大臣は「支那を叩くといってもこれは決して武力で片づくものではない。しかも支那と戦争すれば英米は黙っていないし必ず世界を敵とする大変な戦争になる」と反駁した。 対支戦争を考えていた永田は、対ソ戦準備論の小畑敏四郎と激しく対立し、これが皇道派と統制派の争いであった。 1934年(昭和9年)に陸軍省軍務局長となった。 同年8月、国府津に池田純久、田中清、その他数名の腹心を集めて会議を開き、永田が従来指導していた経済国策研究会を通じ、昭和神聖会に働きかけ、上奏請願に導き、国家改造に伴って戒厳令を布き、皇族内閣を組織するという計画を練った。 エーリヒ・ルーデンドルフの政治支配と総力戦計画に心酔し、同年10月、陸軍の主張を政治・経済の分野に浸透させ、完全な国防国家の建設を提唱する『国防の本義と其強化の提唱』という陸軍パンフレットを出版した。 社会民衆党の亀井貫一郎は、「永田の在世中、議会、政党、軍、政府の間で、合法あるいは非合法による近衛文麿擁立運動についての覚書が作成され、軍内の味方は反対クーデターを考えていた。だから右翼は右翼でクーデターを考えてもよい。どっちのクーデターが来ても近衛を押し出そうと、ここまで考えていたということが永田が殺された原因のひとつ」と語った。 すなわち永田、東条英機、富永恭次、武藤章、下山琢磨ら陸大閥(一夕会)の一部が、亀井、麻生久らを通じて近衛を担いで革新内閣を実現し、革新官僚と連絡をとって革新政策を実現しようとし、反対クーデターも手段として計画され、統制派の反対クーデターは『政治的非常事変勃発ニ処スル対策要綱』という具体案にまでなっていた。またそのために軍内反対派の皇道派を追放し、部内秩序を乱す青年将校を弾圧しようとした。 永田らは機密費を使って、真崎甚三郎悪玉説を流布し、岡田啓介総理大臣は真崎を軍から追放することを内閣の最高方針としたという。
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