経営悪化と相次ぐ災害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/29 03:20 UTC 版)
「岩井町営軌道」の記事における「経営悪化と相次ぐ災害」の解説
荒金鉱山では経営の拡大につれて荒金川・小田川流域農地への鉱毒問題が広がってゆき、被害補償の負担が増えていった。川床の下を通る水路を整備したり、水質改善のための石灰を無償供与したり、収穫減の差額を金銭補償するなどした。一方、鉱石の採掘量はしだいに減っていった。鉱石の搬出は鉄道輸送から小田川沿いの道路を使ったトラック輸送に切り替えが始まり、町営軌道の貨物収入の減少となって採算の悪化を招いた。さらに、レールの交換費用や車輌の修理費用が鉄道事業の収支を圧迫し、1931-32(昭和6-7)年ごろから経営は苦しくなっていった。 ひところは鳥取随一の繁盛をみせた岩井温泉だが、県内各地の交通網の発達や新温泉の発見にともなってほかの温泉地にも客が集まるようになり、岩井温泉の客足は衰え始めた。温泉街に大打撃を与えたのが1934年(昭和9年)6月6日に発生した大火災(岩井の大火)である。強風によって火は温泉街全域に広がり、甚大な被害を出した。216戸あった住宅のうち149戸が焼失したほか、金融機関や郵便局、警察署など非住宅の建造物も177棟が全焼した。 この年の秋の室戸台風が鉄道の経営難に追い打ちをかけた。この台風によって、岩井軌道でも線路が流失するなど、大きな被害を受けた。年度の営業日数は174日にとどまり、赤字に転落した。翌1935年(昭和10年)も復旧に時間がかかり、40日しか営業できなかった。 1936年(昭和11年)にようやく営業を再開し、新型車の導入などの設備投資も行われた。これによって事業は再び好転に向かったかのようだった。しかし1931年(昭和6年)の満州事変、1937年(昭和12年)の日中戦争と時局は悪化の一途をたどり、1939年(昭和14年)頃には整備・修理用の鉄の入手が不可能となり、レールの補修もままならなくなった。経営難のため所有車両を仙台鉄道へ売却するという話も出たが、この時はなんとか踏みとどまった。 1943年(昭和18年)9月10日に発生した鳥取地震は、鉱山に壊滅的な打撃となった。この地震で坑内の設備が壊滅したうえ、坑外に設けられていた堰堤が崩壊して鉱泥が流出、鉱員の宿舎32棟と付近の住宅15棟を押しつぶし、死者行方不明者62名の惨事となった。これ以後、鉱山では坑内の掘削が不能に陥り、沈殿銅の採取のみ行うようになった。
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