経営悪化に伴う事業主体の変遷
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「如意の渡し」の記事における「経営悪化に伴う事業主体の変遷」の解説
昭和40年代初頭において、渡船は1年に約75万人の旅客と2万2900個の手荷物を運ぶ重要な交通機関であったものの、収益は上がらず、赤字が募るばかりであった。高岡市においては「かくの如き公共性を有する交通機関を一市営を以て運営するのは適当にあらず」との声が高まり、1966年(昭和41年)4月に高岡市と事実上渡船の運営に協力していた新湊市が、渡船を県営に移管するよう申し入れを行った。しかし、富山県がその要求を受け容れぬ姿勢を崩さないので、両市は共同して一部事務組合として伏木渡船事業組合を結成し、同組合に事業を運営させることとした。この旨の議案は同年9月に両市の市議会に提出され、1967年(昭和42年)より伏木渡船事業組合がその運営に当ることとなった。なお、実際の運航は引き続き伏木港湾交通に委託された。 しかし、渡船の経営状況は好転せず、伏木渡船事業組合は再三にわたって富山県へ渡船の移管を陳情している。赤字をまかなうために運賃の値上げも連続し、富山地方鉄道射水線の一部廃止や高伏工業地帯の衰退、1974年(昭和49年)8月の伏木港大橋の開通等の情勢に伴い、旅客数も減少した。このような情勢を背景として伏木渡船事業組合は1975年(昭和50年)3月に解散し、その渡船事業は伏木港湾交通に譲渡された。事業譲渡にあたり、伏木港湾交通には新造船の建造費の半額である500万円と赤字補填のために1700万円の補助金が交付された。 これにより新造船「ニュー二上丸」が建造され、渡船は伏木港湾交通の経営によって運航されることとなった。しかし、累積赤字が1300万円にまで膨れ上がったことにより、1977年(昭和52年)10月に同社は渡船廃止の意向を表明した。翌1978年(昭和53年)1月10日には経営状況の悪化により、「如意丸」の検査費用が捻出できず、引退する事態にまでなっている。しかし、存続を求める地元住民の声に後押しされ、高岡市及び新湊市が伏木港湾交通と交渉を行った結果、1978年(昭和53年)3月28日に渡船の存続が決定した。この際に渡船に係る赤字は伏木港湾交通が5分の1、高岡市及び新湊市が5分の4を負担する旨が合意された。
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