経営悪化とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 08:04 UTC 版)
昭和に入ってバイオリンの生産の状況は厳しくなった。鈴木バイオリンを主体とする愛知県の生産は大正末年の6万個、26万2000円から1928年には3万4000個、11万2000円と落ち込み、さらに1930年には1万300個、65000円と激減した。1930年には、株式会社に改組し、鈴木バイオリン製造株式会社とし、本社は名古屋市松山町に置いた。1932年に不渡りで倒産に追い込まれた。営業不振がその主因であるが、土地・建物の暴落、1931年の頼みの明治銀行の倒産もある。人員整理も行った。破産後梅雄が陣頭指揮を執った。約半年で会社債務を完済した。政吉は自ら社長の職を退き、1934年下出義雄(しもいでよしお)を社長に迎えた。下出は名古屋の企業家で、のち政治家、衆議院議員になったが、戦後、公職追放になった。会社の倒産後、政吉は妻とともに東京都北区滝野川の借家に居を移したが、1934年大府町の工場の隣接地に移り住む。そこで亡くなるまで10年間、楽器の研究に打ち込んだ。
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