終戦~現在まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/24 15:14 UTC 版)
広島県三原市の三菱重工に入社。自動工作機(オートメーション)等の開発設計を行った。同時期、絵を習いたい旨を俳人の叔父に相談、小林和作を紹介され筆談にて洋画を習う。また叔父から尾道に住む日本画家の名前を聞き、弟子入り志願するが断られる。諦めきれず何度も足を運び、最終的に一週間の座り込みを行う。結果、1950年(昭和25年)に国画創作協会会友森谷南人子に日本画を師事。本格的な修業を積んだ。 1959年(昭和34年)には、兵庫県尼崎市のナニワ工機に転勤、阪急系列会社の電車の設計、東武鉄道からの依頼でデラックスロマンスカー(けごん)の設計や総合デザインを担当した。その他、ボディペインティング塗料で南米チリの観光車両に富士、舞妓、宮島の風景を描く。また初期の新幹線の設計やデザインを担当した。 その後、会社が拡大され、岐阜県のアルナ工機に転勤し、近代様式の建築やサッシ、コンテナーハウジング、可動式ドア、ロボットの構造や総合デザイン研究のためヨーロッパ数ヶ国をまわり、調査や研究を行った。定年間近に心筋梗塞で入院、その後、定年退職を迎える。 数年後の1985年(昭和60年)に「流派にこだわらず個性豊かな素晴らしい芸術作品を発表し、多くの若手作家が中央で活躍する先輩のアーティストと共に、お互いに研鑽しながらバラエティに富んだ展覧会」を目的に全国公募「美術団体白峰会」を結成。1986年(昭和61年)に第1回白峰展開催(2010年7月に第25回を迎える)。1990年(平成2年)に、当時等迦会(東京都美術館)の会長・鈴木一英に出会い、同年の第23回等迦展に推薦出品する。また1995年(平成7年)には、「阪神大震災被災者へ頑張れのメッセージを込めて」チャリティー展を開催し、利益はすべて新聞社を通して被災地へ送られた。2003年には、弟子の星月ノ友(旧雅号・小尻紗弘)と共同で師弟展を開く。 現在は美術団体白峰会会長、等迦会の特別会員。
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