終戦直後~オイルショック期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 09:38 UTC 版)
「関東学院大学」の記事における「終戦直後~オイルショック期」の解説
終戦を迎えキリスト教への弾圧もなくなり平和なキャンパスの日々が来たのもつかの間、関東学院は大学当局と在学生による闘争に明け暮れた。既に旧制専門学校時代である1948年(昭和23年)から学園紛争が過激化した。礼拝は毎日1限目と2限目の間の休憩時間に行われたが、1968年(昭和43年)に学園紛争で消えることとなる。このような軋轢の中で関東学院は1959年(昭和34年)に神学部を再建した。赤軍派の旗揚げ校にもなった関東学院大は1968年(昭和43年)に青雲寮が3棟焼失したことをきっかけに、主に過激派学生が大学解体を訴えた。それでも厳しい校則は健在で、たとえば寺内タケシなどはタバコを1本吸っただけで停学となっている。1969(昭和44)年には「闘うキリスト者学生同盟」によって神学館がバリケード封鎖された。授業どころではなくなり、関東学院大の心臓部である神学部は1973年(昭和48年)に消失した。最後は「かんらん寮」が、学生運動によって除籍されたはずの若者の巣窟になっていることから、1976年(昭和51)年に「かんらん寮」を取り壊す旨を伝えたが、過激派はさらに抵抗した。このため収束にはさらに1年後となった。このように戦後の関東学院の校風はオイルショック期まで学生運動派と、政治に無関心な学生との「分断」が特徴となった。また関東学院実習工場は2部生のために作られたものであり(2部ができるまでは1部の勤労学生のものであった)、昼間働くことによって実質無料で大学を出ることができるシステムであったが、過激派学生は「大学が金儲けするとはけしからん」と言って実習工場を攻撃した。このため関東学院実習工場は久里浜に移転した。こうして2部生と1部生との対立まで生み出し、学園内はさらに分断された。学生運動によって失ったものは神学部だけでなく、生活協同組合(生協)も失った。これにより校風から一時自治が失われた。また、学園紛争をきっかけに大学側についていた体育会を優遇していくこととなり、これは関東学院大が体育強豪校となるきっかけにもなった。最終的には関東学院側が1970年代後半において神奈川県警察機動隊を利用して学園紛争は終結した。
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