終戦直後の在留日本人の状況と引揚上の問題
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「葫芦島在留日本人大送還」の記事における「終戦直後の在留日本人の状況と引揚上の問題」の解説
満州国崩壊後の中国大陸には大勢の日本人居留民(約170万人)が取り残された。日本敗戦後の満州では、もともと日本を敵と考えて進駐してきたソ連軍兵士や、匪賊、侵略者であった日本人に怒りを抱く現地人暴徒によって、日本人への強奪・強姦・殺害に至るケースが相次いた。ソ連軍進攻直後、地方の満蒙開拓移民らはソ連軍の乱暴や満人からの報復を恐れて、そのほとんどが現地からの退去を図ったが、日本あるいは日本人が多数居住しより安全と思われる都市部を目指す途上、暴民らに追剥ぎや暴行を受け、抵抗した者が無残に殺害される、あるいは、それを怖れて集団自決に至るという事態も発生していた。 やがて、進出したソ連軍によって、朝鮮半島が38度線で封鎖されると、帰国を希望する日本人も満州・朝鮮に取り残され、自活の途を講じていくしかなくなった。残留邦人らは、ときに国民党と共産党の隠然あるいは公然とした勢力争いに巻き込まれ、また、現地の多数派である満人らの日本人に対する報復感情に晒されて、暮らさざるをえなくなった。 ポツダム宣言では、軍の武装解除と兵の帰郷は保証されていたが、民間人の引揚げは明記されておらず、現地統治者の裁量次第であった。当初、日本政府は、外交機能が停止していたことや国内の財政・民生の逼迫もあったが、なにより現地資産の保全のため、民間人は「できる限り現地に定着」というものであったとされる。ところが、実際には、中国など、現地の日本人資産は敵性資産として、事実上、現地統治者による接収が始まっていき、この意味はなくなっていった。中国国民党側は、共産党拡大の抑止力として日本軍の残留ばかりか、経済復興のため日本企業・技師・労働者の残留も望んでいた。一方、米国は100万を超える日本軍が残れば依然として中国にとって脅威であり(トルーマン回顧録)、国民党軍を華北・満州に集中させるため、日本人を帰国させることを望み、また、とりわけ満州ではソ連や八路軍による資産の接収が進められており、それらとともにソ連や共産勢力が技術を入手することをアメリカは懸念していた。このような中、1945年9月7日、日本政府は閣議了解で外征部隊及び居留民帰還につき「現状の非状に鑑み、内地民生上の必要を犠牲にしても、優先的に処置すること」とし、1945年10月の中国国民政府とアメリカとの1回目の上海会議では日本人民間人の帰還移送が決まった。これについて、佐藤量は、当時の実情からして、日中双方ともアメリカの意向に従わざるを得ず、両国はアメリカの政策に同意したものとする。
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