終戦直後の戦犯追求
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敗戦後の連合国軍占領下の日本で、戦時協力をした「文壇の戦犯」と名指しで非難を受ける。その主な論者は、1945年12月に設立された新日本文学会の小田切秀雄や宮本百合子、杉浦明平らであった。小田切秀雄は1946年6月、新日本文学会の機関誌『新日本文学』に「文学における戦争責任の追及」を発表し、そこで「菊池寛、久米正雄、中村武羅夫、高村光太郎、野口米次郎、西條八十、斎藤瀏、斎藤茂吉、岩田豊雄、火野葦平、横光利一、河上徹太郎、小林秀雄、亀井勝一郎、保田與重郎、林房雄、浅野晃、中河与一、尾崎士郎、佐藤春夫、武者小路実篤、戸川貞雄、吉川英治、藤田徳太郎、山田孝雄らは最大かつ直接的な戦争責任者である」と問いただし、「文学界からの公職罷免該当者である」と断定した。杉浦明平は「横光抹殺論」を展開した。宮本百合子は1947年(昭和22年)に「横光利一・小林秀雄というような人々の悲惨は、いかに文飾したとしても、自身を、日本の民主的文学の伝統に固定的に対置させた反措定としての存在以上に発展せしめる人間的能力をもっていないという点です。そのために動的な歴史の過程にあっては真実の反措定でさえもありえず、単に反動的存在でしかありません」と非難した。横光自身はこうした動きに家族に「みんなして、俺の足を引っ張りおる。横綱を倒せば、名があがるからのう。」と寂しく呟いたという。 こうした追求が進む中、文壇では退廃的なムードがもてはやされ、横光の小説は「神秘めかした観念主義」として冷たく否定されていったが、戦争責任の追及はその後「戦争責任者の資格の再吟味」や色々な事情が絡まって曖昧なかたちで消滅したため、横光には「文壇の戦犯」としての指名は苦々しいものではあったものの、横光の作家生活を脅かすほどの打撃とはならず、横光文学は戦後もなお読者を獲得していた。この指名について橋本英吉が横光に話をした際、横光は言下に「そんなことは大した苦痛ではない」と言い切った。むしろ、横光の苦痛はその指名よりも、『旅愁』を終章にしなければならなくなった敗戦後の世相と体力の衰弱にあった。
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