終戦直後~産業団地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/24 15:14 UTC 版)
「坂下津産業団地 (予科練跡)」の記事における「終戦直後~産業団地」の解説
戦後、海軍航空隊が解体された後も、帰ることができなかった練習生(台湾や朝鮮半島など外地から来た練習生)が司令官鵜飼大佐の指導の下、しばらく農業をしながら自給自足の生活をしていたり、また空襲で焼けた鶴島国民学校、中央国民学校、宇和島商工学校(県立)の臨時校舎として使われ、そのまま戦後の学制改革を迎えた(故に宇和島市の城南中学校、城北中学校開校の地はここである)。その後も戦後四半世紀の間放置されて当時の原型を留め、そのため通学通勤の近道、子供の遊び場、昆虫採取、潅木の採取(燃料として)など長く市民が自由に立入ることができた。湿地帯が多かったため食用蛙やアカネトンボの生息地でもあった。そのためか、地元の古老の中には、今でもこの地域を親しみをこめて「予科練」インター近くにある「板島橋」を「予科練橋」と呼ぶ人も存在する。
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