三木町と久留美村との合併について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/17 20:23 UTC 版)
「三木町 (兵庫県)」の記事における「三木町と久留美村との合併について」の解説
戦前の1935年代から「美嚢川流域に位置する同一の地形のもとに人情風俗その軸を一にしてをり」・「経済関係・交通・その他住民生活一体をなして」と言われており、三木町と久留美村は合併に対して論議をされており、すでに合併条件が出来ていた。しかし、戦中の1943年、第二次世界大戦になると事業簡素化の立場から町村合併が推奨されて、合併機運が起こり、この動きはその後の終戦による混乱で「当分ノ間特別ノ必要アルモノノ外、特二積極的二之ヲ行ハザル様」方針が改められたため、沙汰止みとなり、合併の件が白紙になった。終戦後の1946年には再び合併の動きが起こり、両町村の合併に関する委員会も結成されて、双方の委員が調印をする運びにまで進んだが久留美村の一部の村民から反対運動がおこり、1947年3月24日には三木町から「現下の諸事情により察し一度白紙に帰り、現在までの交渉を打ち切ることにいたしたい」と書面が提出されて、合併の件が2回目の白紙になったが、その年の12月には三木市制施行運動が当町で起こり、翌年の1948年2月には三木市制促進期成同盟が結成されたが、1950年になると久留美村との合併の件が持ちこたえだされて、11月19日には当町から久留美村に合併の申し入れがなされ、久留美村はこれを受理し、話し合いが順調に進んでいき、翌年の1951年2月12日には三木町公民館で合併調印式が行なわれ、ついに3月15日に久留美村全域を編入し、人口が2万人近くになり、面積が合併前の3倍近くに膨れ上がった。
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