三木派の解散と河本派の結成
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「三木武夫」の記事における「三木派の解散と河本派の結成」の解説
三木派内部では、三木の首相在任前後から幹部の河本敏夫が有力な総裁候補とみなされるようになっていたが、会長は三木が引き続き務めていた。河本は三木派を解散した後に河本派を旗揚げすることで代替わりをすることをもくろみ、衆参同日選挙の選挙中から派閥解消を訴えていた。また総裁予備選での党員票上積みを狙い、母校の日大の人脈を生かして系列党員の大量入党を進めていた。 1980年(昭和55年)6月22日の衆参同日選挙で自民党は圧勝した。選挙後の6月27日に三木派の総会が開かれた。三木はかねてから派閥の弊害を唱えており、三木派は他派と異なり政策集団であるとの自負もあったが、石田博英が派閥解消を強く主張したこともあり、三木は派閥解消の先陣を切るとして三木派の解散を表明した。しかし三木派の解散直後、河本は狙い通りに河本派を旗揚げし、結局三木派は河本派に代替わりした形となった。
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