紛争の始まり
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1831年8月、フェルディナンデアは海上に姿を現した。数個の岩があったに過ぎなかったが、マルタよりヨーロッパ大陸に近いことから、イギリス海軍は地中海の交通を握るための基地としてマルタより適していると考えた[要出典]。小さな火山地点が、マルタよりスペインやイタリアに近いことから、当時世界最大の海軍にとって地中海の重要な戦略的位置にあったのである。イギリス船が上陸し、ジェームズ・グラハム海軍卿にちなんで島をグラハム島と名づけ、彼らの国旗たるユニオン・ジャックを立てた。 しかしシチリア島の王もその戦略的重要性を悟り、コルベット艦エトナ号を急派して新たな島の所有権を主張し、フェルディナンド2世に敬意を表してフェルディナンデアと名づけた。最後に現れたのはフランス地理学会の創設者の一人コンスタン・プレボーで、彼は噴火をコルク栓を抜かれたシャンパンボトルに例えた。彼は島が7月に生まれたことからジュリアと名付けた。こうして争いが始まった。
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紛争の始まり
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「ナゴルノ・カラバフ戦争」の記事における「紛争の始まり」の解説
自治州が成立して以降、アルメニア人たちはソビエト連邦の政局が変化する度、ナゴルノ・カラバフをアルメニアへ編入するようモスクワへ訴え続けた。そして、1985年にミハイル・ゴルバチョフが連邦共産党書記長に就任し、ペレストロイカなどの自由化政策が開始されると、現地のみならずロシアでも、物理学者のアンドレイ・サハロフなどの著名人がナゴルノ・カラバフのアルメニア編入を支持するようになった。さらにはソ連国外でもアメリカやフランスを始めとする各国のアルメニア人ディアスポラがナゴルノ・カラバフ編入を支持するデモを行った。 しかし、ゴルバチョフがアルメニア人の要求を拒絶したため、ナゴルノ・カラバフでは騒乱事件も発生し、アルメニア本国でもナゴルノ・カラバフの統合を求めるデモが行われた。同年冬にはアルメニア国内でアゼルバイジャン人に対する暴行、略奪、強姦などが始まり、大量のアゼルバイジャン人避難民(英語版)がアルメニアから逃れてアゼルバイジャンのスムガイトへ流れ込んだ。そして1988年2月には、ナゴルノ・カラバフ自治州政府までも公然とアルメニア本国との統一を訴えるに至った。 連邦共産党中央委員会とアゼルバイジャン政府はこの要求を拒絶したが、アルメニア共産党は領土問題の徹底的な検討を中央委員会に訴えた。2月24日には自治州党書記で親アゼルバイジャン派のボリス・ケヴォルコフ (ru) が解任され、時を同じくしてアルメニアの首都エレヴァンでも百万人が参加したと言われるソ連史上空前の規模の統一要求デモが発生した。これに対して、アゼルバイジャンの首都バクーでもカウンター・デモが行われ、国営新聞の『アゼルバイジャン(英語版)』も、ナゴルノ・カラバフがアゼルバイジャンの歴史的領土であると訴える詩人のバフティヤール・ヴァハーブザーデ(アゼルバイジャン語版)など知識人たちの手紙を掲載した。
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