紛争の序章
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/06 08:15 UTC 版)
1820年から1821年、連邦の土地測量隊は、ミシガンの進んだ南側の線と、オハイオの北側のそれの二つの指示で紛争が起こっている地域に到達した。理由は不明であるが、測量長官ティフィンは二つの測量隊に、ハリス線よりむしろ、北西部条例線(フルトン線)でとりまとめるよう要求し、恐らくオハイオのそれよりもミシガンの主張に暗黙の支援を貸した。こうして、彼らがミシガン準州の一部と見なした線の北に、町村が創設された。1820年代前半までに、発展している地域の人口は、州制への基準を満たす60,000人の最小人口の基準点に到達した。しかし、ミシガンが1833年に州憲法制定会議を開こうとしたとき、いまだ議論の絶えないトレド・ストリップのために議会は要求を却下した。 オハイオは、境界はその憲法で確固として設定されたものであり、そのためミシガンの市民は単に侵入者であることを強く主張した。州政府はこの問題でミシガン準州と交渉する事を拒否した。オハイオの議会代表団は、ミシガンの州制の実現を阻むことに活発で、その他の州にミシガンに反対票を投じるよう根回しをした。1835年1月、この政治上の行き詰まりにイライラして、ミシガンの代理の準州知事スティーヴンス・メイソンは、議会のこのような州の憲法を権威づける授権法の承認への否決にもかかわらず、同年の5月に憲法制定会議を開くことを公表した。 1835年2月、オハイオはストリップに郡政府を設ける立法を可決した。トレドが置かれることになる郡は、同年の後半に、現職知事ロバート・ルーカスの名にちなんで名付けられ、これはミシガンとの大きくなっていた緊張をさらに悪化させる動きであった。また、この時期の間に、オハイオは、州の境界を正式にハリス線に設定する以前に否決された境界の法案を復活させるために、議会でのその力を使用しようと試みた。 若くて逆上したメイソン知事が率いるミシガンは、ルーカス郡が創設されたちょうど6日後に、刑罰法の可決で応じた。この法律は、ストリップにおいて政治活動を実施するオハイオ住民を刑事犯罪と見なし、$1,000以下の罰金および/または5年以下の重労働の禁固刑を課した。領地の最高司令官を務めていたメイソンは、オハイオの侵入者に対する行動をいつでもできるよう準備する指示とともに、ジョーゼフ・W・ブラウン准将を州の民兵の司令官に任命した。ルーカスは自らの民兵のための立法の承認を得て、すぐにストリップ地域に武力を派遣した。すでにトレド戦争は始まっていた。 当時マサチューセッツ選出の議員であった、元合衆国大統領のジョン・クィンシー・アダムズは、ミシガンの主張を支援した。1833年、議会がミシガンの会議の要求を否決した時、アダムズはは議論の中で彼の意見をまとめた。「すべての権利がはっきりと一方にあり、すべての力が圧倒的に他方にあるこんな議論は、私の知っている自分の人生の道筋の中で決してなかった」。
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