紛争の概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 22:37 UTC 版)
清朝が1734年(雍正12年)に定めたハルハ東端部(外蒙古)とフルンボイル平原南部の新バルガ(内蒙古)との境界は、モンゴルの独立宣言(1913年)以後も、モンゴルと中華民国の間で踏襲されてきた。しかし、1932年に成立した満洲国とそれを実質的に支配する日本は、フルンボイルの南方境界について従来の境界から10 - 20 kmほど南方に位置するハルハ川を境界と新たに主張し、以後この地を国境係争地とした。 1939年5月、フルンボイル平原のノモンハン周辺でモンゴル軍と満州国軍の国境警備隊の交戦をきっかけに、両国と防衛協定を結んでいるソ連軍と日本軍がそれぞれ兵力を派遣し、大規模な戦闘に発展した。結果は、日本軍側が航空戦では数に劣りながらも常に優勢であったが、地上戦は戦車火砲の力の差が甚だしく、敗退に終わり、ソ連とモンゴル共和国の主張する国境線はほぼ維持された。ソビエト連邦によるポーランド侵攻直前、ソ連政府が所在する首都モスクワのクレムリンで「日ソ両軍の現在地を停戦ラインとし、国境線の画定は後日設立の国境確定委員で交渉する」との事件の停戦の合意が、9月15日深夜に成立した。
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