紛争の名前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:32 UTC 版)
「ポンティアック戦争」という呼称は、多くの部族をとりまとめ、交渉の矢面に立ったオタワ族の酋長、オブワンディヤグ(ポンティアック)にちなんでいる。これ以外にも、ポンティアックの反乱、ポンティアックの蜂起など様々な呼び方がある。当初の戦争の名前は、「キヤスタとポンティアックの戦争」であった。キヤスタはグヤスタの別の綴り方であり、影響力のあるセネカ・ミンゴ族の酋長だった。1851年のフランシス・パークマンによる「ポンティアックの謀略」が出版された後は、「謀略」という呼び方が広く知られるようになった。パークマンの影響力ある本は1世紀近くの間の戦争に関する最も信頼のおける証言となり、今日でも出版されている。 バークマンを始め、白人たちはインディアンの「酋長(チーフ)」を、「部族長」、あるいは「指導者」だと思い込んでいた。しかし実際には、インディアンの部族は合議制民主主義を基本としており、ある個人が部族をとりまとめたり、率いたりするような「首長」のようなものは存在しない。インディアンの酋長とは「調停者」、「世話役」、あるいは「奉仕者」であって、ポンティアックやグヤスタが戦争を率いたわけではない。酋長は調停者として、白人との交渉の矢面に立たなければならなかった。白人はこれを見て、ポンティアックやグヤスタがこの戦争を率い、謀略を図り、扇動したと勝手に思い込んでこのような戦争名を付けたのである。 20世紀に入って、パークマンは戦争におけるポンティアックの影響度合いを誇張しており、それゆえに戦争にポンティアックの名前を付けるのは誤解を生むと指摘する歴史家が現れた。例えば、1988年にフランシス・ジェニングスは「フランシス・パークマンの曇った心では1人の野蛮な天才、オタワ族の酋長ポンティアックから辺境の策略が広がったので、それが「ポンティアックの謀略」となったが、ポンティアックは多くの部族を巻き込んだ反抗における一オタワ族の戦争指導者に過ぎなかった」と記した。戦争の別の名前も提案されたが、一般の歴史家は最も汎く使われている「ポンティアック戦争」と呼び続けている。現代では、「ポンティアックの謀略」は稀に学者によって使われることがある。 上述したようにインディアンの酋長は指導者ではないので、バークマンを批判しているジェニングスも根本的にインディアンの文化を誤解している。
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