紛争の状態
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 15:38 UTC 版)
1425年から1426年にかけて、エノーを巡る問題が短期間同盟関係に影響を与えていたが、その後1427年にイングランドとブルゴーニュ派の軍隊は、シャルル王太子のフランスに敵対する同盟関係を更新した。パリ南西のオルレアネ地域は、ロワール川を支配するためだけでなく、西部におけるイングランドの軍事行動と、東部におけるブルゴーニュ地方の軍事行動を円滑に結びつけるためにも大変重要であった。フランス軍は、アングロ・ブルギニョンの猛攻撃の前から、ラ・イルとジャン・ド・デュノワ(オルレアン公の異母弟)がうまく包囲を解かせた1427年のモンタルジ包囲戦まで効率的ではなかった。モンタルジ救済は、直近の数年間で最初の効果的なフランスの軍事行動であり、少人数で駐屯しているメーヌ西部のイングランド軍占領地域で散発的な反乱を助長し、イングランドが直近に獲得した土地を元に戻させるぞという脅しとなった。 しかしフランス軍は、モンタルジの余波に付け入ることには失敗した。その大きな理由としては、フランスの宮廷がフランス大元帥(fr)アルテュール・ド・リッシュモン(後のブルターニュ公アルテュール3世)と王太子のお気に入りであった侍従のジョルジュ・ド・ラ・トレモイユとの間の内部抗争に巻き込まれていたことであった。デュノワ、ラ・イル、ジャン・ポトン・ド・ザントライユはラ・トレモイユの擁護者であり、一方のクレルモン伯シャルル・ド・ブルボン(アジャンクールでオルレアン公と同じく投獄されたブルボン公ジャン1世の息子)、フランス元帥ジャン・ド・ブロス、エヴルー伯ジョン・ステュアート(英語版)(スコットランド援軍の長)はリッシュモン派であった。フランス内部での紛争は1428年の中頃までに、彼らの遊撃隊がフランスでお互い戦いあう状態にまでなっていた。 イングランドはフランスの麻痺状態を利用して、1428年初頭、イングランドに新たな増援部隊を作り、ソールズベリー伯トマス・モンタキュートにより呼び寄せられた2,700人の兵を新しい戦力に育てた(450人に重装歩兵と2,250人の大弓の射手)。増援部隊はノルマンディーやパリで新しく育てられた軍隊により増強され、ブルグントや臣下の領土であったピカルディーやシャンパーニュからも加わり、計10,000人程の規模になっていたと思われる。 1428年春の軍事会議で、イングランド摂政のベッドフォード公ジョンはメーヌでの攻撃を鎮圧し、アンジェを包囲するために、イングランド軍を西に向かわせることを決定した。オルレアンは当初の構想には無かったが、ベッドフォード公はリッシュモンとラ・トレモイユでの戦闘に関心が集中していたデュノワと個人的な協定を結び、荒々しくベリーに突撃していった。オルレアン公は未だイングランドに捕らえられていたため、捕虜の所持権を得るための騎士道的な戦いの慣習とは対極にあるものであった。ベッドフォード公は単独でオルレアンから退くことに同意したが、7月にソールズベリー伯の指揮下のイングランドの増援部隊到着後、すぐに何らかの理由により考えを変えた。後年に書かれたメモ書きでベッドフォード公はオルレアンの包囲戦は「was taken in hand, God knoweth by what advice」であると表現しており、このことはおそらく彼の考えではなく、ソールズベリー伯の考えであったことを暗示している。
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