純金風呂の設置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 23:29 UTC 版)
その後に石川が行ったのが、1億2000万 - 3000万円を掛けた、豪華な「純金風呂」の設置だった。これは「温泉なんだから温泉というものを極度に打ち出さなければならない」「ぜいたくしたいというには金の風呂を入れたらどうだろう」「現在のような温泉旅館のやり方では、近い将来、必ず客に飽きがくる(中略)。そこで、古今東西にない最高のぜいたくなもの」を、という考えによるものだった。「億以上のカネをかけては採算に合わない」「金ブロとはバチがあたる」と反対する者も周囲にいたが、押し切ったという。 また当初、浴槽の下のタイルを黒にしたところ、黒色が反射して銀色に見えてしまうため、金のマットに変えるなど工夫したという。石川は『実業界』のインタビューで、純金風呂のポイントとして三つを挙げ、「デラックスさをお客さんに味わってもらう」「パブリシティー(宣伝効果)」「(金の価値はこの30年間変動がないため)担保として絶対」と述べている。 純金風呂は鳳凰を象った長さ151センチ、幅76センチ、高さ61センチの宝舟型の浴槽で、22金を124キログラム使用し(純度85.7パーセント)、費用は加工費を含め1億3000万円を要した。設計を依頼されたのは長崎の平和祈念像を制作した北村西望で、「美術品としても価値のあるものにする」とされた。実際の製作は、東京銀座の貴金属商、山崎商店が請け負った。 鳳凰の形にしたのは、船原温泉に伝わる大久保長安の夢の伝説に由来するとされる。大久保は伊豆各地で金鉱を開発した人物であるが、若い頃に金鉱を探して伊豆を歩き廻っていた或る日、夢に鳳凰に乗った老人が現れ、湯の湧くところに金が眠っていると大久保に教えた。この夢を信じて大久保は金脈の発見に成功したと伝えられ、純金風呂はこの伝説の鳳凰を模したという。 更に設置前、純金風呂を監視する役割を兼ねて、「金ブロにふさわしく、金髪の外人女性に金色のパンティーをつけさせて、湯女としてはべらせる」という計画も発表されていた。ニューヨークで実際に募集が行われたが、月40万円の給料を要求されて断念し、在日外国人を物色中であると1964年(昭和39年)9月には報道されていた。また入浴料に関しては、この時点で既に2分間1000円として検討中であると報じられ、実際にこの料金が採用されている。 1964年(昭和39年)12月14日、山崎商店は『読売新聞』夕刊1頁に「純金風呂完成!」との広告を写真付で掲載した。この広告によると、16日から19日に掛けて純金風呂の店頭展示、17日から19日に掛けて記念セールが開催されたようである。 こうして設置された純金風呂は、石川の読み通り、大きな話題を集めた。『週刊サンケイ』の記者が1969年(昭和44年)に修善寺駅のバスターミナルで、切符の売り子に船原温泉行のバスを尋ねたところ、「はい、純金ブロですね、三番から出る松崎行きに乗ってください、すぐです」と答えられ、船原ホテルの回し者ではないかと一瞬思ったほどであったという。またホテル側によると、当時の客の7割は純金風呂へ入浴をしているとされた。 この記者は実際に純金風呂に入浴しているが、風呂に身体を沈めようとするとカメラを持った中年のおじさんが入ってき、「カラーで記念写真をとりましょう」と撮影をされてから「はい二分間」と始まる仕組みであったという。撮影代は入浴代とは別途で800円であった。また大浴場のほかに、トルコ娘のいる「トルコブロ」も併設されていた。風呂場の記念撮影については、清浦ちずこも全く同じ報告をしている。1968年(昭和43年)に『サンデー毎日』の企画で訪れた一行は、「熱くてやっと二分間だけはいれたわ」「記念のカラー写真をとるためにライトを強くしてあるので、思ったより熱かったわ」「記念にはなるね」「お湯はあとからあとからわいてくるから、気持がいい」と評価している。
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