箱館湾海戦
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旧幕府海軍は、自らのミスから新政府軍に千代田形を奪われていたが、5月3日夜、遊軍隊のスパイ・斎藤順三郎により弁天台場の大砲が使用不能にされ、急遽、箱館湾に綱を敷設したものの、5月6日に新政府軍により切断され、軍艦を箱館湾に進出される。5月7日の海戦で回天が蒸気機関を破壊され、意図的に浅瀬に乗り上げ、浮き砲台となる。5月11日の海戦では一隻残った蟠竜が新政府軍の朝陽を撃沈し、旧幕府軍の士気は大いに高まったが、砲弾を射ちつくした蟠竜も座礁の上、乗組員は上陸して弁天台場に合流した。 詳細は「箱館湾海戦」を参照
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箱館湾海戦
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回天丸は旗艦として箱館湾海戦に臨むこととなったが、度重なる海戦の結果、僚艦千代田形丸の捕獲、蟠竜丸の故障により、5月7日には孤軍奮闘を強いられた。甲鉄艦の砲撃によりついに機関を損傷、船としての機能を果たせなくなりながら、陸地近くへ寄せてなおも奮戦。動けないでいた蟠竜丸や台場からの砲撃にも助けられ、その日は新政府軍側艦船を退かせた。 4月24日の海戦当初から、回天丸が被った弾丸は80発を超え、修理することもできないので、浅瀬に乗り上げ、片舷に砲を集めて、浮砲台として利用される事となった。 5月11日の箱館総攻撃において、故障が直り一艦のみで奮戦する蟠竜丸を弁天台場と共に援護していたが、箱館市中に新政府軍が進入。背後からの砲撃も受けて、荒井郁之助を筆頭とする乗組員は、回天丸を脱出して一本木へ上陸、五稜郭へ撤収した。その日、回天丸は新政府軍の手で焼かれた。放火され、煙突、外輪、後部の船体が残った状態の回天丸の写真が残っている。当時の箱館では、「千代田分捕られ蟠龍居ぢやる、鬼の回天骨ばかり」という唄が流行ったと伝えられている。
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箱館湾海戦
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慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発して江戸幕府が瓦解すると、朝陽丸は明治政府の手に渡った。慶応4年4月11日(新暦5月3日)朝廷に献納、4月28日(新暦5月20日)引き渡しされた。なお引渡時にはボイラーが破損しており、汽走は出来なかった。肥前出身で、かつて長崎でオランダ海軍の伝習を受けた中牟田倉之助が艦長となり、明治2年3月30日(1869年4月11日)品川を出港、旧幕府軍を追撃して蝦夷地へ向けて北上した。 皮肉なことに、明治2年(1869年)の箱館戦争で、朝暘丸は活躍する。松前攻撃では、陸上攻撃で170発の砲弾を放ったといい、松前城の櫓にも命中させた。 さらに箱館湾海戦では、4月26日(新暦6月6日)、回天丸の40斤砲に砲弾を命中させるなど、連日活躍を見せた。しかし5月11日(新暦6月20日)の箱館総攻撃において、かつては僚艦だった旧幕府軍艦蟠竜丸の最後の奮闘により、7時30分砲撃が朝陽丸の火薬庫に命中し、大爆発を起こして轟沈。中牟田倉之助は重傷を負いながらも一命を取り留めたが、副長夏秋又之助はじめ乗組員の80名が戦死した。海中に投げ出され、救助された乗組員のうち、さらに6名が死亡した[要出典]。 この戦いを己巳役(きしのえき)と称し、箱館戦争終結後の間もなく、朝陽丸乗組員戦死者を弔う己巳役海軍戦死碑が函館山に建立された。
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