第6軍の新設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)
8月4日、参謀本部は、作戦中にも関わらず、ノモンハン方面全般の指揮を執らせるために新たに第6軍という中間司令部を新設し、司令官として荻洲立兵中将が補職された(元々第6軍は、西部ソ満国境警備の上級司令部として創設計画であったが、事件のため創設目的を変えて創設された。当初の創設計画人事では後宮淳中将が司令官の予定だったが、事件前に第4軍司令官と第6軍司令官の人事が入れ換えられた)。新設した意図について、参謀本部作戦課長の稲田によれば「関東軍は大局的な視点に立った事件の収拾に注力するため」とのことであった。しかし、軍編成にあたって、関東軍司令官植田などから第7師団を追加するという提案もあったが、辻ら作戦課参謀が「関東軍唯一の戦略予備である第7師団を極東ソ連軍が全面的に不穏な動きを見せている今、軽々しく動かすべきではない」や「築城と冬営設備の輸送を続けているため、これ以上の輸送量が増大する方策は不可」という反対意見を主張したため見送りとなり、結局、第6軍に編入された戦力は第23師団と第8国境守備隊であったが、第8国境守備隊の一部はすでにノモンハンのノロ高地の守備についており、実質の追加戦力は7月中に到着した速射砲以外は殆どなかった。 戦力の追加もないのに突然できた上級司令部を第23師団の幕僚らは冷淡に見ており、第6軍幕僚らの初の部隊巡視に帯同した小林兵団指揮官の小林は荻洲の印象を「休憩所にて酒を催促され、ちょっと面くらえり。誠に無造作なる、相変わらず磊落なる軍司令官なり」と日記に書くなど呆れている。また、第6軍の幕僚らはノモンハン戦に当初から関係している人物はおらず、参謀すらも関東軍参謀20数名から横滑りした参謀はおらず、参謀長の藤本鉄熊少将は朝鮮の飛行第6戦隊長から転じてきた航空畑の人物だった。これまでノモンハン戦を主導してきた辻は「破れそうな茅屋を、雨漏りのままで譲る」という後ろめたい気持ちがあったというが、中間司令部ができたことにより「軍の自主性を尊重しよう」という建前で、戦局が悪化する一方のノモンハン戦から離れて、東部国境に出向している。 13日の第6軍と第23師団の作戦会議では、戦場の実情をよく知らない第6軍司令部が「敵が外翼または間隙から侵入するときは、これを入れてから、叩くこと。部隊の配置は、攻防とも極力、縦深配置とすること」との訓示を行ったが、軍とは名ばかりで実質は1個師団程度の兵力しかない第6軍が、37 kmにも及ぶノモンハン正面で縦深配置することなど初めから不可能で(通常1個師団の担当は7-8 kmとされる)この訓示を聞いた小松原は第6軍萩洲に対する不信感を強めた。また、急造の第6軍司令部には司令部直属の通信兵すらいなかったので、第23師団との連絡のため師団司令部のある将軍廟に参謀を1名残しておくべきではという提案があったが、自前の護衛兵すらいないので師団に負担をかけるという理由で、前線から200 kmも離れたハイラルへと戻ってしまった。そのためソ連の総攻撃時には軍参謀は前線に不在で、ジューコフから「日本軍の幹部は休暇をとって後方で遊んでいた」と揶揄されることとなってしまった。
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