第2回(1988年)FNSスーパースペシャル 1億人のテレビ夢列島'88
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1988年7月16日21:00 - 翌日17日20:54 総合司会はタモリと笑福亭鶴瓶。 この年もさんまに総合司会を依頼したが、さんまは「1回目を超えられない」という理由で断ったという。なお、さんまは番組内ドラマ『愛そして旅立ち』に駅員役として出演。 放送前の1988年4月に鹿内春雄が死去したため、製作総指揮はこの年からフジテレビ会長に就任した義弟・鹿内宏明に交代した(1992年まで)。 テーマは「結ぶ」。青函トンネルと瀬戸大橋が開通し日本が鉄道で繋がったため、JR旅客全6社(JR北海道・JR東日本・JR東海・JR西日本・JR四国・JR九州)が全面協力し東京六大学の鉄道研究会学生たちの監修のもと特別列車を走らせた。札幌駅と博多駅から数チームに分かれた芸能人・文化人、お目付け役のフジテレビアナウンサー(小堺一機、関根勤、渡辺正行、海老一染之助・染太郎、山本晋也、林家こぶ平、向坂樹興、牧原俊幸ら)が全国各地の中継駅を回って東京・河田町にあったフジテレビまで戻って来られるように日程を組んだ。 オープニングでは横浜スタジアムでの大洋×巨人戦の模様を中継。中井美穂が初のプロ野球実況に挑戦した。 キャプテンシステムを使い、独自の「おもしろ視聴率」を集計した。 前年不参加の鹿児島テレビがこの回から参加し25局ネットとなるも、翌年は再び編成上の都合がつかずにネットを辞退した。 FNS各系列局が探した『おもしろ人間』を3分間のVTRにまとめて紹介するコーナーが番組内に設けられた。テレビ西日本が紹介したおもしろ人間は複数いたが、その一人にテレビ西日本でケーブルさばきのアルバイトをしていた当時大学生の松村邦洋がいた。彼は17日夕方の『スーパータイムデラックス』にて福岡・小呂島からの中継で登場。中継の最後で海にダイブした。このとき中継のため小呂島へ行っていた片岡鶴太郎との出会いが芸能界に入るきっかけとなった。また、『スーパータイムデラックス』のパートでは当時『FNNスーパータイム』の週末キャスターを担当していた黒岩祐治が東京上空から中継リポーターを務めた。 CGキャラクターのネーミングを電話で募集し、『ノケゾリーナ』という名前に決まった。名付け親は当時栃木県在住の女子小学生。しかしこのネーミング募集に電話が殺到し、電話回線がパンクしてしまうトラブルがあり、翌日の『笑っていいとも!増刊号 電リクスペシャル』で行う予定だった電話リクエストを中止せざるを得ないという影響も出た。 『ノケゾリーナ』と出演者の会話は、最初から番組内で出演者が話す言葉を脚本家が書き、その返答が描かれた紙をオペレーターが見て、音声合成装置にキーボードから入力するという方法が使われた。CGの動作は、丸型の携帯ラジオから内部の機械をすべて外して、動きを指示するためのボタンを付けたリモコンが使われた。リハーサル時にはCGシステムが故障するトラブルもあったが、本番では、予備のハードディスクを使うことで事なきを得た。 中継駅に行った芸能人が「北海道・食の祭典」や「よかトピア」などのコンパニオンガールからおみやげを受け取ったりするシーンが何度となくあった。 フィナーレではチャイルズや松本明子が感極まって号泣したり、スタジオに持ってきたドジョウが飛び出すハプニングもある中、出演者たちの10秒前からのカウントダウンで幕を下ろした。この回から1990年まではエンディングテーマとして服部克久の「プロローグ」が使われていた。 提供クレジットを読み上げた新人アナウンサーは青嶋達也・有賀さつき・河野景子・八木亜希子の男性1人、女性3人の合計4人。
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