第1散文稿
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「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の記事における「第1散文稿」の解説
1845年4月、歌劇『タンホイザー』を完成させたワーグナーは、夏の保養のためにマリーエンバート(現チェコ領マリアーンスケー・ラーズニェ)に滞在する。自伝『わが生涯』によれば、この地でゲオルク・ゴットフリート・ゲルヴィヌスde:Georg Gottfried Gervinusの『ドイツ国民文学の歴史』(1835年-1842年)を読みふけり、「その短い記事からハンス・ザックスを含むニュルンベルクのマイスタージンガーたちの姿がひときわ鮮やかに眼前に浮かび上がった」とする。ヤーコプ・グリムの『古いドイツのマイスター歌について』(1811年)にも興趣をそそられたワーグナーが、7月16日、「3幕の喜歌劇」として一気に書き上げたのが、第1散文稿(A)である。 この時点では「軽い喜劇」であり、ワーグナーの『友人たちへの伝言』(1851年)によれば、当時の構想は「古代アテナイにおいて、悲劇の後に陽気なサテュロス劇が上演されたように、『ヴァルトブルクの歌合戦』(『タンホイザー』のこと)に真に続きうる喜劇」というものだった。しかしこの計画は、1845年夏に着想した歌劇『ローエングリン』(1848年完成)に本格的に取り組んだことにより、立ち消えとなる。さらに、ワーグナーがドレスデン革命に連座して国外亡命の身となったことで、喜劇の構想そのものからも遠ざかった。この後、ワーグナーが1861年に『ニュルンベルクのマイスタージンガー』に再び取り組むまでには十余年の歳月を要した。 第1散文稿(A)では、登場人物はザックス、ダフィト、マクダレーネ以外は固有名がついておらず、ヴァルターは「若者」、ベックメッサーは「記録係」などとされていた。ザックスの「ニワトコのモノローグ」(第2幕第3場)と「迷妄のモノローグ」(第3幕第1場)はまだなく、第3幕で若者(ヴァルター)の「偉大な皇帝たちを讃える歌」を読んだザックスは、「美しい詩芸術が終わりを告げ」、自分が「最後の詩人」となる運命を嘆き、再びザックスの真価が認められる日を期して、「城に引きこもり、ウルリヒ・フォン・フッテンやマルティン・ルターの書物を研究する」よう若者に勧めるという内容になっている。 記録係(ベックメッサー)がザックスの詩を盗む場面は次の2案が並記されていた。 A案:記録係は机上のメモをポケットに入れるものの、これを使うにはザックスの同意が必要と考え、盗みを告白した上で歌詞を譲ってもらう。 B案:記録係は昨夜の騒ぎでぶち壊しにされた歌の代わりをザックスに要求、情にほだされたザックスは、若いころに作っていた詩を提供する。 『友人たちへの伝言』では、ザックスが「若き騎士が作った詩を―出所不明と偽って」記録係に渡すという設定になり、陰謀性が現れている。第2草稿以降は、現スコアと同じ筋立てとなるが、ザックスが「求婚レース」に立候補する意志を持っている「証拠」としてベックメッサーがメモを突きつける、という展開は韻文台本からである。 また、最終ページに残された「神聖ローマ帝国が煙と消えようとも/ドイツの神聖な芸術は残るであろう」というザックスの最終演説部分は、この箇所のみ鉛筆で書き込まれており、ドイツ書体であることから、第1散文稿を書き上げた後、ワーグナーがラテン書体に切り替えた1848年12月以前の記入と推定される(詳細は#ザックスの最終演説についてを参照のこと。)。
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