笑売編
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 12:32 UTC 版)
藤吉とてんに食い下がられた啄子は、1か月で寄席を開業することを条件に折れ、2人は寄席小屋を探し回り、天満で気になる物件を見つける。持主の亀井庄助は、当初、譲渡の懇願に取り合わなかったが、やがて2人の情熱に心動かされる。しかし、太夫元の寺ギンに寄席小屋を買収されそうになり、てんは商人として実家に向かい、藤吉とともに寄席にかける思いを訴えて資金を借り、寺ギンより先に寄席小屋を買収。芸人仲間の協力も得て順調に寄席小屋「風鳥亭」を開業させる。 風鳥亭は開業3日で閑古鳥が鳴く有様となるが、栞の伝手をきっかけに一度限りの条件ながらも大御所落語家・喜楽亭文鳥本人の出演を取り付け、客席は満員御礼の賑いを見せる。その後、寺ギンからの芸人の派遣で風鳥亭の営業は安定するが、収入の大半を寺ギンに渡す契約条件のため相変わらず苦しい経営ぶりが続く。しかし、協力に乗り出した啄子の経験と、てんのアイデアから考案した独自のサービスや工夫で徐々に売り上げを伸ばし、1年後には藤岡家からの借金を完済。啄子はてんをごりょんさんとして認めるとともに藤吉との結婚を承諾し、2人の祝言と藤吉の会社「北村笑店」(きたむらしょうてん)の立ち上げを見届けた後、知人を頼りアメリカへ旅立っていく。そして大正3年(1914年)、てんと藤吉に長男・隼也が誕生する。 仕事と家庭の両立、藤吉の金遣い、芸人の扱いなどを巡り、てんと藤吉は度々揉めるが、互いの気持ちや考えを理解することで仲直りする。寄席小屋の数も増やしていき風鳥亭を含めて3軒となり、大正5年(1916年)には人気落語家・月の井団吾と専属契約する。芸人の不安定な生活ぶりに気づいたてんは、芸人たちと職員への給与を当時では珍しい月給制に変更する。これにより北村笑店への移籍希望が続出し憤慨した寺ギンは、所属芸人たちを借金を理由に拘束し、風鳥亭への芸人派遣を取りやめ兵糧攻めにする。いよいよ北村笑店が経営の危機に瀕したとき、寺ギンの所属芸人らは移籍を決意し風鳥亭に押しかける。芸人らの借金はてんが密かに貯めてきたへそくりで肩代わりすることで解決し、文鳥の頼みで喜楽亭一座も受け入れる。そして寺ギンの元で修業した風太を番頭に迎え、北村笑店は演芸業界の大会社へ成長する。またこの間、栞はてんを通して藤吉と親友の関係になり、夢であった活動写真製作会社を設立して成功を収め、東京でも人気娘義太夫となったリリコは引退・帰阪後に活動写真女優として活躍、楓は新聞記者になる。 その後、寄席小屋を10軒に増やし、本拠地を千日前に移し「南地風鳥亭」を開業。藤吉は代表取締役兼総席主、てんは取締役経理、風太は大番頭(総支配人)として会社を切り盛りし、新たな演芸として舞踊団「安来節乙女組」を企画・結成したり、関東大震災に被災した東京の落語家たちを呼び寄せるなどし、興行を順調に進めていく。しかし昭和4年(1929年)、藤吉が脳卒中で倒れ入院する。団吾が社員の反対を押し切り挑戦したラジオ史上初の落語の披露や、てんの献身が励みとなり、一時は仕事に復帰するまでに回復するが、病気が再発する。藤吉は栞ら友人たちに今後を託す言葉を残しつつ、芸人らが新たに作り上げた「しゃべくり漫才」の完成を見届けた3日後に入院し、てんに見守られながら息を引きとる。
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