石川藤八とは? わかりやすく解説

石川藤八

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 05:46 UTC 版)

豊田佐吉」の記事における「石川藤八」の解説

愛知県 知多郡乙川村の石川藤八家は代々続く庄屋であった藤八家は年貢米だけではなく海産物綿織物扱っていた。7代目石川藤八は数え年15歳藤八家に養子入り直ち家督継いだ同時に石川藤八を名乗ったが、本名松本市終生変えなかった。佐吉乙川村藤八家を訪れたのはこの7代目当主であった1895年明治28年であった佐吉藤八最初出会いは、知多郡岡田村であった1889年明治22年)春、佐吉先進織機竹内虎王技術知ろう岡田までやって来た。佐吉大工見習いとして、地元大工元締めである岡田屋住み込んだ岡田屋から派遣されたのが、買継問屋とともに織布工場を営む中島右衛門であった彼の真の目的技術を盗むことであった。この時代技術真似して盗むことは決し悪いことではなかったのである一方藤八出機織布によって織られた布を岡田の買継問屋竹之内源助家まで納め来ていた。2人の出会い証明する確かな資料は見つかっていないが、可能性大きと言えるまた、藤八佐吉発明した糸繰返機のお得意様でもあった。藤八商用名古屋宝町豊田商店訪れることもあった。藤八佐吉だけではなく従業員の利喜とも顔なじみであった佐吉気風の良い藤八を、頼りがいのある旦那さんだと見込んだ一方藤八佐吉熱意気に入った藤八屋敷2階6畳間に佐吉居候させ、研究援助をした。佐吉はすでに力織機設計完成させていた。だが、力織機試作動力購入、そして試運転をするための資金がなかった。 藤八邸と試験工場は少し離れていた。昼夜問わず佐吉は、研究室として使っていた佐吉部屋試験工場を日に何度も往復した佐吉は、藤八家の家族使用人のいる部屋を通らなければならなかった。そこで、藤八2階佐吉部屋へ、玄関横から直接行くことができる専用階段作った藤八佐吉家族使用人遠慮することなく昼夜出入りできるようにと配慮したのである藤八力織機発明完成するための資金土地建物提供した豊田式木混製力織機1896年明治29年11月15日完成した。この木混製の力織機使った工場をつくることになった。翌1897年明治30年)秋、藤八全面的な援助の元、資本金6,000円、織機60台分2,400円を投じて佐吉共同乙川綿布合資会社設立された。 この工場から、その翌年の春、綿布出荷された。乙川綿布織られ製品検査した三井物産東京本社検査係はその優秀さ認めた。この時から、豊田三井強く結びついた。三井豊田パートナーとして支援し補完する関係が始まった藤八この後も、佐吉側面から援助し続けた佐吉藤八2人友情深まり、やがて義兄弟契りを結ぶ。そしてもう一人佐吉惚れ込み支援し続け人物現れた。後に興和紡績となる服部商店服部兼三郎である。この3人の仲の良さ称して立派な床の間並んで飾られる三幅掛軸のように「三幅対の仲」と譬えられた。名古屋料亭花月」で毎晩のように飲み明かす3人の姿があったという話が伝わっている。 佐吉藤八亡くなった後もその恩を忘れず藤八家との親交続いた佐吉夫婦藤八法要には必ず出席をした。その際には、乗って来た人力車一丁ほど前で降りて歩いて藤八邸の門まで来たと言い伝えられている。

※この「石川藤八」の解説は、「豊田佐吉」の解説の一部です。
「石川藤八」を含む「豊田佐吉」の記事については、「豊田佐吉」の概要を参照ください。

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