三幅対の仲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 03:55 UTC 版)
「石川藤八 (7代目)」の記事における「三幅対の仲」の解説
佐吉は武平町、堀内町、山崎町と名古屋市内を次々と移転しながら工場を拡張し、少しずつ成功を収め始めた。藤八は佐吉の支援はするが、けっして表に出ることはなかった。これは日本を代表する三井物産、三井銀行が佐吉の発明に食指を動かしたことが理由であった。もうひとつは佐吉が経営者というよりは発明一筋の発明家であったことが一因であろう。しかし、仕事以外の遊びにおいては、良き友であった。 藤八と佐吉にはこの頃、もう一人無二の友ができた。それが服部兼三郎である。彼は苦労して、独力で名古屋の繊維業界の中で地位を築いた人物であった。後に、服部商店を興す。服部商店はその後、興和紡績へと発展した。興和紡績は名古屋を中心に大きく発展し名古屋財界で活躍する。 この服部兼三郎を含めた三人は、とても馬が合い、飲む時は必ず三人一緒であった。この様子を周りの人間は三幅対の仲と呼んだ。立派な広い床の間には三幅の掛軸を並べて掛けることができる。そのため大変仲の良いたとえとして三幅対の仲という。服部兼三郎もまた藤八と時期が重なりながら、その後の佐吉を支援する。後にトヨタ自動車工業社長となる石田退三が服部兼三郎のもとで働いていた大正初めの時代のエピソードがある。それは佐吉が兼三郎から、いとも簡単に「今度は少し大きい25万円ほど欲しい」とぶっきらぼうに言って、金を借りたという話である。
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