放浪と発明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 05:46 UTC 版)
佐吉は生涯、発明という夢を追い続けた。そして、青年時代は放浪と出奔を繰り返した。19歳の時、佐吉は同じ大工見習いの佐原五郎作を誘い、家出をした。2人は徒歩で東京まで行った。しかし観光ではなく、佐吉は工場ばかりを見て回った。23歳の時は上野で開催されていた第3回内国勧業博覧会を見るために上京した。目的は外国製の機械と臥雲辰致の発明品を見たかったからである。この2回の家出をはじめ、青年期の佐吉は一ヶ所に長く留まることがなかった。彼はひたすら各地を回り続けた。 家を飛び出した若い佐吉が頼りにしたのが、豊橋の母方の叔父・森重治郎であった。その家には同年代の従弟・米治郎もいた。また、佐吉はふらっと尾張の企業地へ出掛けることもあった。木曽川町玉ノ井で1889年(明治22年)、佐吉が1年間ほど、艶嘉と田上の有力機屋に寄寓し、研究したことが町史に記載されている。また稲沢市下津(おりづ)においては野村織工場に滞在して、バッタン機の改良装置を試作したと伝えられている。また、東京浅草外千束に住んでいた時は、埼玉県の企業地の蕨まで足を伸ばし、高橋新五郎を訪ねた。 知多郡乙川村の7代目石川藤八に巡り合うまでは、佐吉は発明のヒントを探すために全国各地どこへでも出かけていった。 納屋へとじこもってもっぱら織機の改良に集中した佐吉の発明生活は、きわめてけわしいものであった。佐吉自身の語るところによると、それは次のようなものであった。 愈々(いよいよ)織機の改良と云うことに目的を極めたが、然らば是を如何に改良するか、今日でこそ織機と云えば動力で動かすものと極まって居るが、明治の初年に於ては動力など云うことを考える人は、余程“はいから”の部類の人であった。 左様な雰囲気の中に於て考えるのであるから、其苦心懊悩は一通りではなかった。…人の手ばかり借りて居っては、仕事が思う様に運ばぬ。自分にも大工の真似事もやる。朝から晩まで毎日毎日こつこつと何か拵えて見ては壊す、造っては又造り直す。それを後から考えて見ると、随分へまな事もやった。まるで狂人じみたやり方さ。傍人が眺めて狂人扱いにし、変り者扱いにしたのも、尤も至極の事さ。弟を連れて東京に出掛けた事もある。 …東京で折角仕事を進めかけると、ひどい脚気症に罹った。命辛がらで遠州の我家に帰って来た。失意どころか旗揚げもせずに帰ったのだから、周囲の空気は冷たい。唯一人労わってくれる者もない。労るどころか、謗る者ばかりである。それもその筈じゃ。田舎の小百姓と言いながら、田畑の少しはあったものを、ぼつぼつと売り減らして、あてどもない発明に皆つぎこむのだから、とても周囲の人達が良く言うてくれそうな筈がない。 ^ 紐を引いて杼箱(ひばこ)から杼(ひ)を飛ばす装置。1733年にイギリスのジョン・ケイが発明した。チャンカラとも呼ばれる。英語ではフライング・シャトル。
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