放浪 1875-78年
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「アルチュール・ランボー」の記事における「放浪 1875-78年」の解説
1875年以降、ランボーは詩を放棄し、各地を放浪しては病に倒れるなどしてシャルルヴィル(ロッシュ)に戻るという生活を繰り返した。1875年5月にシュトゥットガルトを発って徒歩でアルプス山脈を越えてイタリアに向かった。ミラノに着くと病に倒れ、回復後に中央イタリアに向かってさらに南下したが、6月にリヴォルノのフランス領事によって本国に送還された。ヴェルレーヌ宛のドラエーの手紙によると、スペイン語の習得のためにスペインの軍隊に志願したが、断念してパリに向かった。パリを訪れた母、妹ヴィタリーとイザベルとともに過ごした後、10月にはシャルルヴィルに戻った。12月18日、妹ヴィタリーが17歳で死去。 1876年4月にウィーン、5月にブリュッセルを経てロッテルダムに向かい、ハルデルウェイクで6か月にわたってオランダ領東インドに駐屯する予定の外人部隊に入隊。部隊は6月にジャワ島に向かい、バタヴィア(現ジャカルタ)に到着したが、8月15日に脱走。パリを経て12月にシャルルヴィルに戻った。 1877年、5月中頃にブレーメンで米海軍に志願するが許可されず、ストックホルム、コペンハーゲンを経て12月にシャルルヴィルに戻った。1878年、10月20日、ロッシュを発ってヴォージュ山脈を越えてスイス、ミラノを経てジェノヴァ港に到着。同港からアレクサンドリア(エジプト)行きの船に乗った。キプロス島ラルナカのエルネスト・ジャン&ティアル社に雇用され、採石場の現場監督を務めたが、腸チフスによる発熱のため、翌79年5月にロッシュに戻った。秋にキプロスに戻るためにマルセイユに向かったが、再び発熱し、ロッシュに戻った。
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