藤八の葬儀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 03:55 UTC 版)
「石川藤八 (7代目)」の記事における「藤八の葬儀」の解説
七代目石川藤八は1914年(大正3年)1月19日の午後8時に死去した。享年51であった。葬儀は藤八家のすぐ西にある時宗寺院、開運山光照寺で行なわれた。菩提寺は知多郡東浦村石浜の明徳寺であったが、村を上げての葬儀とするためか、最も近くの寺を借りての葬儀となった。 豊田佐吉夫妻、服部兼三郎夫妻をはじめとして繊維業界や近隣の多くの人々が参列した。葬儀は六役葬という格式で行なわれた。また、葬儀に参列した人々が焼き場まで葬列を組んで練り歩くという伝統的な法式での葬儀であった。この葬列には21もの配役が割り当てられ、豊田佐吉は雪柳(せつりゅう)を持つ役、服部兼三郎は蝋燭立を持つ役であった。この葬儀の香資帳(香典帳)が残されている。それには香典の額、焼香順位、葬列の順番、参加寺院名、賄い仕入品名、法事参列者名等々、葬儀に関することが漏れなく記載されており、七代目の葬儀の概要を知ることができる。 佐吉夫婦は葬儀だけではなく、初七日、満中陰、一周忌、三回忌、七回忌の法要に参加している。これは佐吉がいかに藤八に恩義を感じていたかという証でもある。また藤八家まで法事で来る際に、佐吉は乗って来た人力車を一丁先で降りて歩いたと言い伝えられている。この話も藤八への佐吉の心情を表している。
※この「藤八の葬儀」の解説は、「石川藤八 (7代目)」の解説の一部です。
「藤八の葬儀」を含む「石川藤八 (7代目)」の記事については、「石川藤八 (7代目)」の概要を参照ください。
- 藤八の葬儀のページへのリンク