乙川綿布合資会社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 03:55 UTC 版)
「石川藤八 (7代目)」の記事における「乙川綿布合資会社」の解説
藤八は軽い気持ちで佐吉を二階に住まわせたが、佐吉は昼も夜もなく発明に没頭した。佐吉は研究にのめり込むと、周りのことには全く無頓着であった。藤八家の家人や使用人は目に入らず、時無しに階段を上り下りした。だが、藤八自身はだんだんと佐吉の人柄を気に入り始めていた。藤八は家人と揉め事になる前に解決をしようと考えた。佐吉の住む二階へは玄関横の土間から直接行くことができるように階段をつくって揉め事の芽を摘んだ。 佐吉の研究ははかどり、図面から試作、試作から試運転へと順調に進んだ。1895年(明治28年)の夏、試運転にはどうしても動力が必要となった。野末作蔵の案内で藤八は佐吉に同道して渥美郡二川町大字細谷村の或る精米工場に行き、工場内にあった馬力の汽鑵(きかん)と機械を買うことができた。この頃には藤八も佐吉の発明の完成を心待ちにするようになった。1896年(明治29年)に幾多の困難を乗り越えて、力織機が完成した。 藤八は佐吉が完成させた力織機を見て、これこそが待ち望んでいた織機だと思った。藤八は6000円の資金と土地建物を準備した。織機60台分の資金2400円を含めて総額8400円で、1897年(明治30年)秋、乙川綿布合資会社が設立された。翌1898年(明治31年)の春、工場の操業が始まった。すこぶる順調に稼動し綿布が織り上がり、初出荷された。この綿布が東京の三井物産本社の目に留まった。今までの手織りの人力織機では出来ないきれいな仕上がりを、専門の検査係は見逃すことはなかった。一躍、豊田佐吉と彼の発明した豊田式木鉄混製力織機に光があたった。藤八は佐吉の才能を世に出すべきだと考えた。
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