知事の2期目
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「J・C・W・ベッカム」の記事における「知事の2期目」の解説
ケンタッキー州憲法は2期続けて州知事に就任することを禁じていたが、ベッカムは1903年に新たに4年間知事としての指名を求めると宣言した。その出馬については裁判所に異議申し立てがなされたが、裁判所の判断は、ベッカムが最初の任期を4年間務めていないので、次の任期に出馬する資格があるというものだった。1期目に和解を進め、議論の少ない改革を行った実績が有ったので、党内の指名争いでも特段反対は無く、指名された。共和党の対抗馬モリス・B・ベルナップからも、選挙運動中に指摘されるような問題が無かった。知事選挙ではベルナップとその他3人の弱小候補を破って再選された。 1904年の議会に対するメッセージでは、1期目に成立していなかった統一教科書の問題を再度取り上げた。この法は1904年の会期中に成立した重要法の1つだった。この会期中に、新しい州会議事堂と故ゴーベル知事への記念碑の建設予算が承認された。 1904年3月、ケンタッキー州の全ての学校で人種分離を義務づけるデイ法にベッカムは署名した。1850年代から東ケンタッキーで人種統合を進めていた私立カレッジ、ベリア・カレッジが、即座にこの法に対する異議申し立てを行った。法の骨子は巡回裁判所とケンタッキー控訴裁判所で支持された。ベリア・カレッジはアメリカ合衆国最高裁判所まで上訴し、1908年、最高裁判所は8対1の票決でベリア・カレッジの訴えを退けた。ジョン・マーシャル・ハーラン陪席判事のみが反対意見だった。 1904年の会期の終わり近く、議会は、カーター郡、エリオット郡、ルイス郡のそれぞれ一部を併せて、ベッカム郡の創設を承認した。オリーブヒルが郡庁所在地に指定された。間もなく、新郡が州憲法に規定される最低面積400平方マイル (1,000 km2) に満たしておらず、また母体となった郡も400平方マイル以下になったので、新郡の存在自体に異議が提出された。カーター郡もこの訴訟に加わり、ベッカム郡の境界がカーター郡の郡庁所在地であるグレイソンに近すぎること、またルイス郡の郡庁所在地であるバンスバーグにも近すぎると主張した。州憲法では郡境が郡庁所在地から10マイル (16 km) 以内にあることを禁じていた。1904年、ケンタッキー州控訴裁判所は原告の申し立てを支持し、ベッカム郡を消失させた。 1906年の議会会期では、ニューヨーク州検事チャールズ・エヴァンズ・ヒューズの指導に基づき、腐敗した保険会社の調査と告発を奨励した。特に保険会社が違法な目的で手元に多量の現金を置いておくことを可能にする、配当の遅延という慣習を止めさせるよう推薦した。さらに州内で事業を行う保険会社には、ケンタッキー州内で得た収益の特定比率を投資して経済を活性化させ、不正行為に対して保険契約者を保護することを求めた。 州西部で起きたブラックパッチ・タバコ戦争に対しては、これを鎮めるための州軍の派遣を拒んだ。その拒否については憲法上の理由を挙げたが、おそらくは政治的な理由であり、その地域では民主党が優勢だったので、自分の党に挑戦したくなかったからだった。ベッカムは、南北戦争のときの負債を連邦政府から徴収することで、事実上州の負債を無くした。州の財政が改善されたことで、州議会は州内の師範学校のうちの2校、すなわちボーリンググリーンにある西部州立教員養成カレッジ(後の西ケンタッキー大学)と、リッチモンドにある東部州立教員養成カレッジ(後の東ケンタッキー大学の一部)の拡張を票決した。 ベッカムは議会との関係が良好だったので、1906年6月に大胆な政治的動きを行った。すなわち11月に民主党の知事候補と上院議員候補を指名する予備選挙を行うことであり、知事の場合は選挙の1年前、上院議員については選挙の2年前という日程だった。ベッカムは次に上院議員になることを望んでおり、予備選挙を2年前倒しできれば、知事である間に党の候補指名を得られることになる筈だった。また自分の影響力を行使して後継知事候補を選ばせることも可能だった。ベッカムが後継知事に選んだのは州監査官サミュエル・ウィルバー・ヘイガーであり、予備選挙では挑戦者のN・B・ヘイズを容易に破った。上院議員の予備選挙では、元州知事のジェイムズ・マクリアリーが対立候補になったが、ベッカムが11,000票差で勝利した。
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