相互銀行・第二地方銀行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 09:55 UTC 版)
「三井住友銀行」の記事における「相互銀行・第二地方銀行」の解説
太陽銀行 1940年(昭和15年)、東京川崎財閥の相生無尽を中心として東京市内の無尽会社5社が合併し、成立した 大日本無尽 が起源。その後同社は政府の勧奨に基づき相互無尽1社を除く東京府内の無尽会社を統合。終戦までに神奈川県・埼玉県・山梨県および長野県下の無尽会社を統合した。戦後、日本無尽と改称。相互銀行法の制定により相互銀行に転換。日本相互銀行 と改称した。この時点で相銀界のリーディングカンパニーとして、ときわ相互銀行(現在の東日本銀行)や第一相互銀行が経営危機に陥った際には、率先してこれを支援した。太陽生命保険と提携して業績を拡大。やがて高度経済成長で中小企業だった取引先と共に日本相銀も急成長し、その一方で相銀特有の零細融資である相互掛金の取扱高は減少する事態になり、大蔵省から河野社長を迎えた頃はもはや地銀上位行を凌ぐ内容であった。こうして1968年(昭和43年)普通銀行に転換し、太陽銀行と改称。同時に都市銀行の一角に加わった。 平和相互銀行 戦前は東北林業という名の会社であったが、終戦直後看做無尽の日掛金融を営業して急成長し、相互銀行法の制定で相互銀行に転換。平和相互銀行となった。駅前から住宅地まで首都圏随一の店舗網、夜7時までの窓口営業、都銀各行と提携しATMではどの銀行のキャッシュカードでも使用可能とする等、当時最も便利な銀行であった。しかし、創業以来小宮山英蔵ならびに小宮山一族がオーナーとして君臨し、グループ会社の太平洋クラブ等に対する不明瞭な融資や放漫かつ乱脈融資で知られ、「闇の紳士の貯金箱」とも揶揄された。1986年(昭和61年)についに破綻し、住友銀行に救済合併された。旧平和相互銀行の若手行員の中には合併後十数年の出世競争に生き残り、三井住友銀行の部店長にまで昇進した例が複数あることも事実である。旧平和相互銀行本店は1990年代まで「第二東京営業部」として存置され、同行の店舗は店番が800・900番台として区別された(支店番号としては統合されてはいるものの2017年現在も存続)。 わかしお銀行 戦前相互無尽という名の無尽会社として東京・神田神保町で開業。大日本無尽への統合にも加わらず独立を守り、戦後、 「第一相互銀行」に転換後経営危機を迎え、日本相銀の支援を受けるも再建後は富士銀行に接近して救済合併を免れた。しかし1989年(平成元年)、当時の小林社長による乱脈経営で行き詰まり、太陽神戸銀行ほか都銀数行による管理体制に入る。同年10月第二地銀に転換し、太平洋銀行となるもバブル崩壊による経営危機で遂に破綻。受け皿銀行としてさくら銀行全額出資のわかしお銀行が設立された。以降、太平洋銀行を承継した同行は東京の第二地銀として中小企業金融を中心に営業していた。2003年(平成15年)3月に、(旧)三井住友銀行の有価証券含み損(約8000億円)を資産の含み益(約2兆円)を帳簿上現実化させる目的でわかしお銀行が存続会社となり(旧)三井住友銀行を合併するいわゆる「逆さ合併」を実施した。千代田営業部旧館の建物は関東大震災時の震災復興建築として知られている。
※この「相互銀行・第二地方銀行」の解説は、「三井住友銀行」の解説の一部です。
「相互銀行・第二地方銀行」を含む「三井住友銀行」の記事については、「三井住友銀行」の概要を参照ください。
- 相互銀行第二地方銀行のページへのリンク