白楊社時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 08:53 UTC 版)
「白楊社#略史」も参照 1920年(大正9年)6月12日、豊川良平死去。遺産の全てが長男豊川順彌(白楊社社長)に相続される。 12月頃、白楊社が試作車(アレス号)の開発に着手。 1921年(大正10年)豊川二郎死去。 末、アレス号(S型とM型)が完成。 1922年(大正11年)3月、アレス号(S型とM型)が平和記念東京博覧会に出品され、銀賞(銀牌)を受賞。 1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生。東京市内の路面電車網は壊滅し、市はフォード・T型トラックを数百台揃えてバスに転用(円太郎バス)して代行を図る。関東の多くの道路も被災したが、震災以後、自動車の有用性が広く認識されるようになる。 9月、オートモ号試作車の製作が始まる。 空冷943㏄(Lヘッド)エンジンを搭載した改良型アレス号が完成。 1924年(大正13年)オートモ号試作車が完成。改良型アレス号とともに各地で試走を重ねる。 8月末、オートモ号試作車が東京から大阪までの40時間ノンストップのテスト走行に成功。 11月、オートモ号が発売される。 1925年(大正14年)2月、横浜で日本フォード自動車社が設立され、横浜工場でT型のノックダウン生産を開始。 11月、オートモ号の価格改定(値下げ)が行われる。 11月28日、オートモ号が上海に輸出される。(日本車の輸出第1号) 12月6日、東京・洲崎で開催された日本自動車競走大会で、唯一の国産車として参戦したオートモ号(レース仕様)が予選1位、決勝2位となる。 1926年(大正15年/昭和元年)オートモ号の販売台数がこの年にピークを迎える。 4月、市販仕様のオートモ号が大阪─東京間のノンストップレースに参加し、完走を遂げる。 1927年(昭和2年)春、空冷1,331㏄の大排気量エンジンを搭載したオートモ号が発売され、従来の943㏄エンジンは生産を終了。 4月、大阪でゼネラルモーターズがノックダウン生産を開始。 夏、水冷1,487ccのエンジンを搭載したオートモ号が発売され、従来の空冷エンジンは生産を終了。 1928年(昭和3年)春、オートモ号の生産終了。白楊社も事実上解散する。 1929年(昭和4年)春、残務処理が終わり、白楊社が閉鎖される。
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