豊川二郎とは? わかりやすく解説

豊川二郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 08:53 UTC 版)

オートモ号」の記事における「豊川二郎」の解説

豊川二郎(とよかわ じろう、1891年 - 1921年)は豊川良平次男で、順彌の5つ年下の弟である。もともと自動車興味持っていたのは順彌ではなく二郎のほうで、1908年明治40年以前からのことであったという。二郎幼少期の順彌と同様、身体虚弱で、1913年大正2年)には東京高等工業学校通称蔵前東京工業大学前身)の機械科3年終わりに病で中退することになるが、その頃には『モーター』誌(極東書院)に自動車解説記事毎号寄稿するほど自動車情熱傾けていた。一方、この当時の順彌は自動車には興味がなく、二郎そうした投稿活動には反対していたという。 1915年大正4年)、療養終えた二郎オーストラリア経て米国外遊し、現地自動車事情見聞して帰国するその際自動車への感銘を一層深めた二郎は、同年12月に順彌が「ダブルジャイロスコープ」の特許取得のため米国向けて出立する際に、自動車について見て回るよう強く勧めた考えられている。 1917年大正6年10月米国から帰国した順彌は二郎同様に自動車への理解を持つようになり、将来日本絶対に必要になるものだとして自動車製造始めようとするが、当時白楊社には自動車について知識がある者は順彌と二郎だけで、設計ができる人間一人もいなかった。 同年二郎再度渡米して自動車研究続けようとするが、病気再発して帰国余儀なくされた。そこで、病気十分な助けできない自分に代わって、二郎東京高等工業学校時代同級生である蒔田司、池永羆、佐々木昭二を勧誘して白楊社相次いで入社させた(池永佐々木二郎死後入社)。二郎後輩渡辺隆之介も含め東京高等工業学校出身の彼らは、白楊社入った時点では自動車製造賛成する者は一人もいなかったが、後に白楊社自動車製造中核となっていくことになる。 こうして白楊社自動車試作始めるが、二郎当時流行していたスペイン風邪罹り1921年大正10年)、開発中だった試作車アレス号完成を見ることなく死去した。後に順彌は「AlesOtomo豊川兄弟合作である。」と述べている。

※この「豊川二郎」の解説は、「オートモ号」の解説の一部です。
「豊川二郎」を含む「オートモ号」の記事については、「オートモ号」の概要を参照ください。

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