豊川二郎
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豊川二郎(とよかわ じろう、1891年 - 1921年)は豊川良平の次男で、順彌の5つ年下の弟である。もともと自動車に興味を持っていたのは順彌ではなく二郎のほうで、1908年(明治40年)以前からのことであったという。二郎は幼少期の順彌と同様、身体が虚弱で、1913年(大正2年)には東京高等工業学校(通称・蔵前。東京工業大学の前身)の機械科を3年の終わりに病で中退することになるが、その頃には『モーター』誌(極東書院)に自動車の解説記事を毎号寄稿するほど自動車に情熱を傾けていた。一方、この当時の順彌は自動車には興味がなく、二郎のそうした投稿活動には反対していたという。 1915年(大正4年)、療養を終えた二郎はオーストラリアを経て、米国を外遊し、現地の自動車事情を見聞して帰国する。その際に自動車への感銘を一層深めた二郎は、同年12月に順彌が「ダブルジャイロスコープ」の特許取得のため米国に向けて出立する際に、自動車について見て回るよう強く勧めたと考えられている。 1917年(大正6年)10月、米国から帰国した順彌は二郎と同様に自動車への理解を持つようになり、将来の日本に絶対に必要になるものだとして自動車製造を始めようとするが、当時の白楊社には自動車についての知識がある者は順彌と二郎だけで、設計ができる人間は一人もいなかった。 同年、二郎は再度渡米して自動車研究を続けようとするが、病気が再発して帰国を余儀なくされた。そこで、病気で十分な助けができない自分に代わって、二郎は東京高等工業学校時代の同級生である蒔田鉄司、池永羆、佐々木昭二を勧誘して、白楊社に相次いで入社させた(池永と佐々木は二郎の死後に入社)。二郎の後輩の渡辺隆之介も含め、東京高等工業学校出身の彼らは、白楊社に入った時点では自動車製造に賛成する者は一人もいなかったが、後に白楊社で自動車製造の中核となっていくことになる。 こうして白楊社は自動車の試作を始めるが、二郎は当時流行していたスペイン風邪に罹り、1921年(大正10年)、開発中だった試作車アレス号の完成を見ることなく、死去した。後に順彌は「Ales、Otomoは豊川兄弟の合作である。」と述べている。
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