試作車アレス号
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豊川順彌によって1912年(明治45年/大正元年)に東京・巣鴨で創業された白楊社は、当初は豊川の趣味的な組織であり、豊川が没頭していたジャイロコンパスの研究や、工業用の模型等の製造を主な事業とした。1915年(大正4年)から1917年(大正6年)にかけての米国滞在を経て、自動車製造に興味を持った豊川は帰国後に内燃機関と自動車の研究・製作を開始する。これに伴い、旋盤などの工作機械の製造が必要になり、白楊社はそれらの製造・販売を本格的に始める。 1920年(大正9年)9月に試作車の製作を始め、翌1921年(大正10年)末に試作車「アレス」号を完成させた。 試作車の製作にあたり、白楊社はハノマーグ、シトロエン、ジョルダン(英語版)の完成車や、サンプルとしてエンジンを欧米から取り寄せているが、これらは独自設計の参考にするためのものとして、いずれもコピーするということはしなかった。これは白楊社が純国産車の製造を志向していたためである。 アレス号は空冷4気筒780㏄エンジンを搭載した小型の車両(S型)と、水冷4気筒1,610㏄エンジンを搭載した一回り大きい車両(M型)の2種類が製作された。水冷のM型は完成当初から問題なく走ったが、空冷のS型は最初のテストで、オーバーヒートによると思われる不具合で、すぐに止まってしまうトラブルを起こした。しかし、豊川は、日本の国情には小型車のほうが合っており、加えて、小型車には空冷エンジンのほうが向いていると開発当初から考えており、その後は空冷エンジンを搭載したS型のテストを重ねた。(#アレス号完成もあわせて参照のこと) 完成翌年の1922年(大正11年)、2台のアレス号は平和記念東京博覧会に出品されて銀賞(銀牌)を受賞。 1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が起こると、被災によって生じた悪路を試験走行にはむしろ幸いと捉え、空冷アレス号は東京市近辺で連続走行を行い、改良が重ねられた。これにより白楊社は780㏄のエンジンでは力不足との結論に至り、4気筒はそのままに排気量を943㏄(Lヘッド)に拡大したエンジンを製作した。このエンジンを搭載した改良型アレス号は同年末までに計10台が製作された。当初のM型とS型の試作車各1台を含め、アレス号は計12台が製作されたと記録されている。
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