試作車完成後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 10:36 UTC 版)
1954年(昭和29年)2月には4台の試作車が完成。百瀬晋六が上司の松林敏夫に試作車完成を報告すると、松林は「では試しに成田山まで行ってみよう」と発案した。百瀬らはトラブルを危惧しつつも、伊勢崎から成田まで悪路の多い関東縦走ドライブに出発したが、試作フレームでの試走を繰り返した実績もあって、大きなトラブルもなく往復ドライブを完遂した。 この車に当初積まれたエンジンは48 PSの1.5 L水冷直列4気筒OHVエンジン「FG4A型」であった。これは富士精密工業がプリンス自動車の依頼で製作したエンジンであり、フランス車プジョー・202のエンジンをベースに排気量を拡大して1952年(昭和27年)に開発した製品であった。プリンス以外のメーカーにFG4Aエンジンを供給する了承はプリンスから取られておらず、同クラスの乗用車を生産していて競合するプリンス側からの抗議もあり、富士精密からのエンジン供給は途絶した。 富士自動車工業側はこの事態を予測しており、対策を打っていた。当時の富士自動車工業は、自動車用には大きすぎる軽飛行機用エンジンと、小さすぎるスクーター用や汎用エンジンしか作っていなかったため、同じく旧中島飛行機系グループ企業でエンジン開発力のある大宮富士工業に代替エンジン開発を依頼した。 大宮富士工業では急遽、少数の若手スタッフの手で水冷直列4気筒OHV・1.5 LのL4-1型'エンジンを開発した。L-4はブリティッシュ・フォードやボクスホールなどの戦後型イギリス車エンジンを参考に開発されたもので、戦前型プジョーベースのFG4Aよりも近代化されており、重量は20 %以上も軽量、出力はより高い52 PS、最大トルクも11 kg-mを達成してP-1中期型以降の性能向上を実現、大宮富士工業の技術力を示した。 試作車は翌1955年(昭和30年)4月までに合計20台が製作された。うち11台はFG4A型エンジンが、残り9台はL4-1型エンジンが搭載されていた。14台はナンバーを取得し、うち6台を伊勢崎市・太田市・本庄市でタクシー会社向けに販売し、約1年間モニターをしてもらった。残りは自家用(社用車)を兼ねて別にテストを続けた。テスト結果はどれも好評だった。また1957年(昭和32年)に行われた運輸省の性能テストでも最優秀の成績を納めている。
※この「試作車完成後」の解説は、「スバル・1500」の解説の一部です。
「試作車完成後」を含む「スバル・1500」の記事については、「スバル・1500」の概要を参照ください。
- 試作車完成後のページへのリンク